反乱を起こしたポーランド人を鎮圧するために、ドイツ軍が化学兵器を使用した無差別攻撃を実施したとの 情報を聞いた日本政府要人たちは度肝を抜かれた。首相官邸で仕事をしている最中に報告を聞いた嶋田も一瞬、耳を疑った。

「化学兵器だと? 何かの間違いではないのか?」

 しかし秘書官からの答えは変わらない。

「事実のようです。ドイツ軍は反乱が起きた地域に対して、事実上の無差別攻撃を実施しているとのことです」
「……」

 嶋田はやや苦い顔をした後、関係者を召集するように命じて秘書を下がらせる。

(あのヒトラーが化学兵器を大々的に使うとは)

 窓の外に映る夜景を見ながら嶋田は嘆息した。

(サリンガスを都市部に無差別散布されたら……犠牲は数万人ではすまないぞ)

 そして暫くして外務大臣の吉田茂と情報局局長の田中が入室した。二人が入ってきたのを見た嶋田は苦い顔で口を開く。

「……最新の情勢は?」
「現地の情報が錯綜していて、正確な情報はまだ掴めていません。ただし、ドイツ軍は航空機も使用して大規模な散布を行った との情報は入っています。ワルシャワではかなりの犠牲が出ているとも」
「ドイツ政府の反応は?」

 外務省の立て直しのために急遽、外務大臣に抜擢された吉田(前任は健康問題で辞任)は人を喰ったような笑みを浮かべて答える。

「現時点では化学兵器を使用したことは明らかにしていませんが、現地のドイツ人を虐殺したポーランド人への鉄槌を下した、と 発表しています。同時に虐殺された『善良な』ドイツ人の写真が公開されたようです」

 吉田の言葉を聞いて嶋田と田中は苦笑する。
 ポーランドでドイツ人が何をしていたかを理解していれば、『善良』という言葉ほど空虚に感じる言葉は無い。

「まぁドイツ人が現地でやったことを考えれば、報いと言えるが……」
「ドイツ人には『恥』と言う概念がないようですな。どうやらナチが政権がとってドイツ語の辞書は書き換えられたようです」

 吉田の皮肉を聞いた嶋田はなんとも言えない顔になった。

「何はともあれ、ドイツに釘を刺す必要があるだろう。それに自由ポーランドが暴走しないように宥める用意もする必要がある」

 これから起こる問題を如何に解決するか……それを思うと嶋田は頭痛を覚えた。
 しかし田中は今回の惨劇はある意味でチャンスであると主張する。

「それにこれは好機とも言えます。ドイツの残虐性を喧伝するチャンスですし、何より彼らがわざわざ手の内を晒したのです」
「ポーランド人を生贄にして、宣伝工作に使える材料とドイツ軍の切り札の情報を収集するか」
「当然かと。その指示はすでに出してあります」
「日本人は目立つぞ? 中国系と称すると尚更だ」
「そのための旧アメリカ出身者です。すでにロシア系の人員と共に活動しています」

 日本軍、中央情報局、三菱、倉崎などの企業群は世界中で旧アメリカから流出した人材の確保を積極的に進めていた。

「機材はいいから、とりあえず人材を確保しろ!」

 人事担当者はそういって檄を飛ばした。何しろ夢幻会派(史実を知る面々)は、流出した人材に優秀な人材が多いことを理解して いたため、絶好のチャンスと考えていた。

(彼らの才能は金塊よりも遥かに価値がある。彼らの能力が過小評価されているのも幸いだった)

 旧アメリカ合衆国政府の醜態は、旧連邦政府出身者の評価を押し下げるには十分だった。まず共産主義者の巣窟とされた旧国務省の人間の 立場は殆どなかった。そして戦争が終わって日本が開発した原爆や弾道弾、新兵器群の詳細(日本が意図的にリークした物も含む)が明らかに なると情報機関の人間に『無能』のレッテルを貼られた。

「お前ら、情報部の人間は救い難いほどの無能なのか、それとも唾棄すべき売国奴なのか、どっちだ?」

 いい加減な情報の下で、日本軍と戦わされ、多くの犠牲を払ったと思っている旧アメリカ軍人の中にはそう詰った者さえいた。
 詰らなかった者でも、情報機関への不信感は根強かった。旧連邦の開戦謀略に加担したのではないかと色眼鏡で見られる者も少なく なかった。
 そんな不遇を囲っていた人間達に日本側は積極的にラブコールをした。そう、かつてロシア帝国が崩壊したとき、ロシア皇族や一部貴族と共に 世界に名だたるロシアの情報機関を取り込んだように、今度は旧アメリカの情報機関の取り込みを夢幻会は積極的に進めていたのだ。

(旧ロシア帝国と同じように、アメリカからも遺産を毟り取るか……いやアメリカの場合は墓所を暴き、残った財宝を奪った上でその名誉さえ 奪ったのだ。よほどたちが悪いと言えるだろうな)

 嶋田は自分達の所業を思って、自嘲しそうになるがすぐに気分を切り換える。

「軍もできる限り協力しよう」
「ありがとうございます。軍の支援を受けられるなら、有益な情報を手に入れられるでしょう」

 ドイツの切り札であり化学兵器の情報、そしてその運用方法についての情報は幾らでも欲しいというのが田中の本音だった。
 意図せずして日本が覇権国家となった以上、恨みを買う可能性は史実よりもはるかに高くなっている。よって内地、外地問わず 都市部でテロが、それも枢軸側が糸を引いた事件が起こることも想定しなければならない。

(大陸の人間がテロを起す可能性は皆無とは言えない。非正規戦に備える必要がある)

 中華民国、正確に言えば漢民族に実質的にトドメを刺した換わりに、恨みも買っていることを田中はよく理解してた。内ゲバを 煽ることで日本に目が向かないように仕向けているが、日本を大陸に引きずり込むためにテロを行う可能性は十分にあった。
 そしてそれに化学兵器が使われないという保証は無い。
 一方、吉田はドイツの脅威を喧伝すると同時に、有益な情報が手に入ればドイツの化学兵器の脅威に怯える国々との取引材料に もなりえると考えていた。

(ポーランド人には悪いが、利用させてもらおう)

 今回の一件を利用することで大きな成果を出せれば、戦争の結果、軍と情報局に押されがちになった外務省の復権にも繋がる……吉田は そんな計算も巡らせた。
 何はともあれ二人とも、一個人としては多少ポーランド人に同情するが、如何に今回の一件を日本の利益に繋げるかを冷徹に考えていた。 ポーランド人が聞けば「人でなし」と言われそうだが、帝国の頂点に立つ者からすれば当然の責務だった。

(ふむ……だが問題は国内の反応か。対ソ連政策を考えると必要以上に世論が反独に染まるのも困る)

 日本に害を成す赤い帝国を東西に分割して無害化するには、ドイツとの関係を破綻させるわけにはいかなかった。
 嶋田からすれば「引けるくじが『赤』か『黒』だけってどれだけ罰ゲームだよ」と不満を言いたくなるが、さらに残念なことに 遠く離れたドイツよりも隣国であり共産主義を掲げ、領土に貪欲なソ連のほうが余程脅威なので今のところ選択肢は『黒』一択だった。 仮にソ連が共産主義を完全に捨てれば、話は別だが……。

「……いや、ここで考えても仕方ないか」

 嶋田は小さくそう呟くと話題を元に戻す。

「だが今回のドイツの行動、彼らなりの損得計算の下で行われた行動であっても、対外的にデメリットが多いと思うが?」

 ナチスドイツの国際的評価は高くない。確かにこの大戦でドイツは勢力圏を拡大し、世界の三大国になった。しかし奴隷制云々の前に、 彼らが如何に国際的な条約、取り決めを破ってきたかを考えれば誰もかの国を信用しないし、高い評価を与えないのも当然だった。
 そんな彼らが化学兵器を使ったのだ。それはただでさえ低い評価をさらに押し下げる行為に他ならない。

「他の地域の住民達への見せしめを最優先としたのでしょう。仮に他地域に混乱が拡大した場合、東部戦線のドイツ軍は重大な危機に陥ります」
「ふむ」

 東欧での反乱が拡大すれば、東部戦線に張り付かせているドイツ陸軍は後方を遮断されるという事態を引き起こしかねない。 その状態でソ連軍が反攻に移ればドイツは危機に陥る。

「ドイツの占領地では、それほど不満が溜まっていると?」
「『あの』惨状の西ヨーロッパがまだマシなレベルですので。特にポーランドは独ソ戦の初期に両軍の主戦場となりました。 これによって国土は荒廃しています。ドイツ人もロシア人も、現地住民のポーランド人のことなど歯牙にもかけませんでした。最新の情報 では生活物資の不足が進み、一部の地域では酷いインフレが起きていたようです」
「……」

 イギリスとドイツが停戦し、さらにドイツが独ソ国境に戦力を集結させたことで、さすがのスターリンもドイツ軍の動きを警戒して 独ソ国境で防衛体制を固めていた。このためポーランドは独ソという二大陸軍国家の殴り合いに巻き込まれて文字通り踏み荒らされることになったのだ。

「しかしドイツ軍がその気になれば通常戦力でも揉み潰せるはずだ。連中なら見せしめとして都市区画ごと吹き飛ばすことだって出来るはず」

 いくら何でも反応が過剰すぎるのではないか……と嶋田は思ったが、必要以上に考えても仕方ないとして頭を切り換える。

「情報局と外務省は引き続き、情報収集を頼む」
「はい」

 会話を終えた直後、関係閣僚が集まったとの電話が入り、嶋田たちはすぐに部屋を後にした。





         提督たちの憂鬱外伝 戦後編11





 旧ポーランドの首都『ワルシャワ』。
 かつて東欧有数の大国であった国の首都の中心部はたった数日で瓦礫と死体、そして有毒ガスに満ちた『死都』と化していた。
 これは暴動の規模が大きかったワルシャワ、クラクフ、ポズナンにはタブン、サリン、ソマンが容赦なく使用されたためだった。さらに生き 残った人間に対する徹底的な掃討戦が行われた結果、現時点で死者はすでに70万人を超えると考えられていた。今後、ポーランド全土で 掃討戦を行えばさらに犠牲者は増えると思われていた。
 この反乱鎮圧の指揮を取った親衛隊大将のラインハルト・ハイドリヒは、ワルシャワ郊外に置かれた司令部で反乱鎮圧に成功したと判断した。

「これで反乱が拡大することはないだろう」

 『死都』と化したワルシャワの写真を見て、ハイドリヒは何の感慨も籠めず淡々と言うと、視線を部下に向ける。

「こちらの被害は?」
「100名超の民間人が犠牲になったとの報告が入っています。暴徒共に囚われた人間を含めるとさらに数が増えるかと」

 ドイツ軍は民間人と守備隊を順次撤退させ、自国の民間人がいる場所(特に入植地)の近くでは催涙ガスの使用に留めることで自国民の被害を 最小限にしようとした。しかしそれでも被害を0にすることは出来なかった。

(時間を掛ければ、もう少し被害を減らせたのだが……)

 ハイドリヒは内心でそう呟く。だが残念なことにドイツにとってはその時間がなかった。反乱の長期化は東欧、そして東部戦線の不安定化を 招きかねないのだ。さらに総統であるヒトラーがポーランド人を日英側、そして他の奴隷達への見せしめにすることを望んでいた。ヒトラーの 意を汲まなければならないハイドリヒに取れる選択肢はあまりなかった。

「ポーランド人にはこのツケを払ってもらう」

 飼い主の手を噛む狂犬を生かしておくほど、ドイツは寛容ではなかったし、反乱予備軍を放置しておけるほどドイツに余裕はなかった。
 日本によるポーランド人の北米移送計画に賛同する者達も、最終的には輸送の負担低減のための「口減らし」になるとして消極的に賛同に 回っていた。

「ポーランド人のために食いつぶせる余剰資源は、今の欧州には一欠けらもない」

 自国民に困窮を強いるよりはマシ……彼らはそう言い聞かせてポーランドの惨劇について目を瞑った。
 そしてハイドリヒはベルリンからの命令を最も効率よくそして短時間で達成するつもりだった。非人道的だったが、それが彼の『仕事』なのだ。

「しかし殺すのも、殺した後の後始末もただではない。他地域に影響がでないように物資の消費は抑える必要がある」

 そういうとハイドリヒは報告書と共に送られてきた一枚の写真に視線をやる。
 その写真には老若男女とわず、多くのポーランド人が無惨な姿になっているのが写っているのだがハイドリヒは一々気に病まない。
 しかしハイドリヒのように完全に割り切って仕事が出来る人間はそう多くない。また汚れ仕事を好き好んで引き受ける人間も多くない。故に この鎮圧作戦ではポーランドの少数民族が動員されていた。

「カシューブ人は?」
「再編のため後方に下げていますが、明日には出撃が可能です」
「そうか」

 ポーランドの少数民族であり、かつてプロイセン王国が健在だった時代には王国の一員であったカシューブ人は、ナチスドイツの武装SSとしてこの 殲滅戦に参加していた。ヒムラーとしてはゲルマン民族以外の人間を武装SSに入れたくはなったが、労働力の問題や国防軍との軋轢もあって ゲルマン以外の民族も採用していたのだ。この政策によってカシューブ人、そして他の少数民族も武装SSに入ることが可能となっていた。
 当然、ナチスに尻尾を振るということはポーランド人から裏切り者扱いされ、ある意味、ドイツ人以上に恨まれる立場となる。そして報復の恐怖に 晒された彼らはドイツ以上にポーランド人に容赦がなかった。

「連中は反乱が未だに続く東部に投入する」
「了解しました」
「ポーランド周辺の状況は?」
「チェコ住民を中心に、ポーランド人狩りが進められています」

 ポーランド人に恨みを持つ人間達はここぞとばかりに、ポーランドから逃げ出してきた人間を狩り出していた。
 戦前からの恨み、そしてドイツによる支配で溜まった鬱憤を自分達よりも弱い立場になった者達にぶつけることで晴らそうとしていたのだ。 相手が子供だろうが、一切の容赦は無い。女子供を犯罪組織に売り渡す者さえいる始末だった。

「そうか」

 部下の答えに頷くと、ハイドリヒは今後のことを考えた。

(日本はポーランド人を北米に移送したらどうだと提案しているが……この分では、北米に移動できるのは全ポーランド人の半分にも満たないだろう)

 唯でさえ破壊されていたポーランドの国土は、先の戦争での戦禍、その後の異常気象、そして今回の反乱とその後の無差別攻撃で荒廃しきった。
 経済の破壊、そして寒冷化と食糧不足によってポーランド人はさらに死ぬことになる。特に日本人が人道上の理由で移送を提案していた 女子供は真っ先に死ぬことになる。これだけ数を減らせれば、ドイツにとっても負担なく移送が可能になる。

(生き残る人間の内、使い物になるのはウクライナに送るとして、実際に北米に送るのは300万人程度か? まぁその程度なら問題ないだろう。 北米に再建されたとしても小国だ。大した脅威ではない)

 ポーランドが阿鼻叫喚の巷と化した頃、ポーランドの情勢、そしてドイツ軍の動向を探るべく日本、英国、カリフォルニア共和国、北欧諸国の 諜報機関が西ヨーロッパを舞台に活発に動いていた。
 『スイスのリヴィエラ』とさえ言われるレマン湖畔にあり、多くのセレブに愛されるリゾート地『モントルー』。そこに並ぶ優美な ホテルの中でも由緒あるホテル『ル・モントルーパレス』の一室にいる二人の男女。かつて旧アメリカ合衆国に所属していた彼らは、新たな 雇用主の命令を受けて、ドイツ軍の情報収集に当っていた。

「ドイツ人はユダヤ人を絶滅させるより、ポーランド人を絶滅させることを優先する気のようだな」

 男は報告書を見てやや苦い声色で呟いた。
 ドイツ側も機密情報を守ろうと、防諜に力を入れたがポーランドの人口密集地帯で大量のC兵器を使った以上、全てを覆い隠すのは 不可能だった。
 女はテーブルに置かれたワインを一杯口に含むと、口を開く。

「彼らは時計の針を100年以上まき戻すつもりのようです」
「……レッド・ベアが力を失い、テディ・ベアが滅びた後に来たのが、帝国主義全盛期の世界とはな」

 史実ではCIA長官になり、この世界では偉大な祖国を失った男、アレン・ウェルシュ・ダレスはなんとも言えない顔になった。
 彼は欧州におけるアメリカの諜報活動を管轄していた男であり、彼の兄も優秀な政治学者として一目置かれる存在だった。アメリカが 戦争に勝っていれば、彼には明るい未来が待っていただろう。
 だが日米戦争によるアメリカの敗北と崩壊(実質的にはアメリカの自爆)が、それを変えた。
 共産主義の巣窟だの、対日開戦謀略に加担しただのと言われた国務省出身者は瞬く間に肩身が狭い思いをするはめになった。

「あの津波が全てを変えてしまった」

 何度目になるか判らない呟きをダレスは漏らす。
 女は聞き飽きた台詞に苦笑するが、それを否定しない。何故ならそれは事実だったからだ。

「ここも随分変わってしまいました」

 世界大戦中、中立国としての立場が保証されていた頃のスイスには、欧州の名家が戦火から逃れるべくこぞって避難していた。 そして名家の『青い血』を求める新興財閥もスイスに出入りした。勿論、中立国であるスイスには各国の諜報機関が集い、自国の 国益を少しでも確保するべく骨肉の争いを続けていたため、名家と新興財閥群のパーティーすら各国の駆け引き、陰謀の場となった。
 だが戦争が終わり、サンタモニカ会談で新たな世界秩序が決まるとスイスの中立は失われていった。ドイツは武力だけではなく経済でも スイスに浸透していった。日英は枢軸の勢力圏の奥深くにあるスイスを助ける力はなく、むしろスイスの優れた技術がドイツに 接収されるのを恐れて、ドイツに先んじて技術者(特にユダヤ系)をスイス国外に連れ出す始末だった。勿論、スイス銀行に置かれた 資金も引き上げた。

「約束破り上等のナチスドイツによって、何時強奪されるか判らない場所に大金は置けない」

 日英の資本家はそう言ってスイス銀行から次々と資金を引き出した。
 そしてそれに取って代わるように枢軸諸国からの資金が流れ込み、ますます枢軸諸国の影響力が増すことになった。 これを見た欧州の名家もスイスを安全地帯と見做さなくなり、新たなプレイヤーとなった日本資本が集まる北欧諸国に向かうようになった。

「北欧では日本の華族たちとサヴォイア家がパーティーを開いたと聞きます」
「時代の流れだろう」

 そして北欧が華やかになるだけスイスが寂れ、それに付け込むように枢軸の人間が入り込むようになり、それがまた日英や反ナチスの人間を スイス離れを加速させている。悪循環だった。
 さらに列強共同の国際機関『世界防疫機関』はスウェーデンに作られ、国際連盟はその機能を停止して事実上消滅した。もはやスイスを 中立国とする価値はなくなり、枢軸に完全に取り込まれるのは時間の問題と言えた。

「中立というのは、他国が認めなければ維持できるものではないからな。そもそもドイツ人はスイス、いやアルプス山脈を利用したいと 思っている。スイス人が中立を叫んでも無駄だろう」

 核攻撃に怯える枢軸(特にドイツ)はスイス国内やアルプス山脈の地下に大規模な軍需工廠を建設し、大規模な核戦争に備えることを 考えていた。それをある程度知るダレスはスイスの中立が失われるのは当然の流れと評すると、話題を元に戻す。

「何はともあれ、これを……ステイツ、いやカリフォルニアに知らせるとしよう。彼らも首を長くして待っているからな」

 北米でドイツの傀儡国家『テキサス共和国』と睨みあいを続けているカリフォルニア共和国にとって、今回の一件は他人事ではない。 仮にドイツとテキサスが全面戦争を決意すれば戦場となるのはカリフォルニアの大地なのだ。
 そしてカリフォルニア共和国、イギリス、日本の諜報機関が集めた情報は、夢幻会の面々も知るところとなった。
 1月の終わりにもなると、ドイツの毒ガス攻撃とその後の掃討戦によってどれだけの命が失われたかが次第に明らかになり、今後の 対応で夢幻会の面々は頭を痛めることになる。






「やれやれ、ドイツ人も派手にやったものだ……」

 帝都の某料亭で開かれた会合の席で、伏見宮は嘆息した。
 忙しい中、時間を作って参加した嶋田と辻、山本など閣僚クラスのメンバーも渋い顔で頷く。
 彼らの手元にある資料には、ポーランドへの毒ガス攻撃(以後、ポーランド事変と呼称)によってどれだけの被害が 出たかが記されており、その被害は会合メンバーの眉を顰めるには十分なものだった。

「犠牲者は判っているだけでも100万人を超え、このまま手を拱いていれば、さらにその数は増える……か。信じられない 真似をするな、彼らは」

 良識的な軍人である山本は、ウンザリした顔で書類を見る。
 そこには百万を超える死者に加え、現地の劣悪な衛生環境と食糧不足による栄養失調によって結核やインフルエンザさえ流行しはじめて おり、ドイツが方針を転換するか、日英が援助の手を差し伸べなければポーランド人の3分の2は死亡しかねないとの文言があった。
 嶋田はウンザリした顔で呟くように言った。

「自由ポーランド政府は凄い剣幕だったよ。吉田さんと私で宥めたが……何らかの措置は必要だろう」

 幾ら借家暮らしになっている自由ポーランド政府でも、母国の惨劇を見逃すことは出来ない。
 そして大家である日本も、ポーランド政府の嘆願を丸っきり無視することはできなかった。日本はドイツ政府に対して非人道的な行為を やめるように働きかけたが、ドイツ政府は入植者を虐殺したポーランド人への報復であると言い切り、日本の行為は内政干渉だと反論した。

「我が国の統治に干渉するおつもりで?」

 ドイツの外務大臣リッベンドロップはそう返した上で、ポーランドの少数民族も鎮圧作戦に参加したことを告げた。
 ただし彼は突っぱねるだけではなかった。彼はポーランド人を殲滅する心算はなく、ポーランド人を北米に移送することも検討していること を示した。このため日本側は不要な虐殺はしないように釘を刺してから、一旦引くことになった。

「現時点で必要以上に、日独関係をこじらせるわけにもいかないし。全くあっちを立てればこっちが立たずだ」

 嶋田は疲れたとばかりにため息をつく。

「万が一に備えてあらかじめ情報統制の準備を進めていたので、臣民はまだ真相を知りません。ですがことが公になると面倒です」

 辻はそう言うと阿部と共にややゲンナリした顔でため息をつく。
 ドイツ軍がポーランドの人口密集地帯に対して事実上の無差別攻撃を、それも神経ガスを使ったというショッキングなニュースは 辻や阿部などが内密に根回ししていたために、一般人はまだ知らない。ただしドイツが暴徒鎮圧のために催涙ガスを使用したという ニュースは小出しに出していた(少なくともドイツ人入植地の近くでは催涙ガスが使用されたので嘘ではない)。
 ソ連分割、北米防疫線維持のため、必要以上に日独関係を悪化させるわけにはいかないという政治判断が根底にあった。 しかしこれだけ大規模だと覆い隠しきれるものではない。いつかは発表しなければならない情報でもあった。

「起こってしまった以上は仕方ない。この状況でどのように手を打つかを考えねば」

 近衛の台詞を聞いた面々は、昭和20年早々に出血大サービスとばかりにトラブルを引き起こしてくれたドイツへの対応と ポーランド自治領構想への行方、そしてフィンランドや英国への支援をどうするかを話し合うことにした。と言っても同時に 話すわけにはいかないので、まず何故ドイツが今回の蛮行に及んだかについて話し合った。
 その中で白洲の意見に注目が集まった。

「つまり我々が先制核攻撃することを恐れるが故に、彼らは今回の蛮行に及んだと?」

 この嶋田の問いに白洲が頷く。

「メヒカリの宣伝が効きすぎたかも知れません」
「だが、核が如何なる地獄をこの世に出現させるか、これを世界に示しておかなければ、抑止力にならん」

 メヒカリの惨劇を喧伝するように根回しした男の一人である伏見宮は強い口調でそう言う。
 引退間際である伏見宮であったが、それゆえに自分の死後、日本が悲惨な戦争に突入しないように心を砕いていた。

「どんな勇ましい言葉で、どんな優美な映像で賛美しようと、戦争は地獄だよ。安易にするものではない」

 実戦を経験しているが故に、そして衝号に関わったが故に、彼は真剣だった。

「ですがドイツにとっては、その地獄を作る兵器を日本が独占していることこそが恐怖なのです。そして富嶽や弾道弾と核兵器の組み合わされば 次に何が考えられるかは……」
「「「……」」」

 音速を超えて飛んでくる迎撃不能な弾道弾と、都市を一発で廃墟に変える核兵器の組み合わせは恐怖そのものだった。
 しかし夢幻会としては戦前からICBM(可能ならばSLBMの早期開発)と核兵器の組み合わせこそが、戦後世界で日本が生き延びるための 切り札と考えていたため、それを手放す真似は絶対に出来なかった。

「自分の米神に銃を突きつけている当人から『撃つ気はないよ』といわれても説得力はないということか」

 近衛の言葉に白洲は頷く。

「しかしこれまでの所業を考えると、ドイツに対して必要以上に宥和政策は唱えられない。世論が納得しないだろう」

 杉山の言うとおりだった。ドイツはこれまで様々な条約や取り決めを破ってきたのだ。その彼らに対して宥和政策を採れば イギリスの二の舞と誹りを受ける。幾ら夢幻会が宥和策が必要だからと言っても、大多数の理解が得られなければ非常に困難だった。 必要以上の宥和政策は逆に国内の強硬派を刺激することになり、国の舵取りを危うくする可能性がある。

「ドイツが核兵器開発に成功した辺りで、核兵器の拡散防止のための条約を締結する、これが手の打ち所でしょう」

 嶋田の意見に反対意見はない。
 しかし問題はドイツが何時核兵器を開発できるか、だった。

「欧州の状況を考えると、早くて10年。遅ければ15年掛かるかと」

 田中の予想を聞いた面々は、ドイツが過剰反応するのも止むを得ないかも、と一瞬思った。
 しかし田中の追い討ちは終らない。

「加えて、原爆開発に焦った枢軸側が安全の確保を無視して開発を進めた場合、事故が起こる可能性も高くなります。仮に大規模な 事故が欧州で起きれば、さらに開発が遅れるでしょう」
「「「……」」」

 焦ったドイツが何をするか……考えたくもなかった。いやドイツが焦って自爆することで付け込む隙が増えるのはいいかもしれないが 物事には限度というものがある。それに枢軸の混乱が拡大しすぎると、日本側にまで悪影響が出かねない。

(いっそのこと先制攻撃を仕掛けてドイツを屈服させるか? まさか、犠牲が多すぎる。その後の後始末も考えたら非現実的だ)

 嶋田は首を横に振る。日本にはアメリカに成り代わって世界を支配する力などない。最終的に日本も負担に耐えかねて瓦解するか 、それとも世界を放り出すことになるかのどちらかだった。

「イギリスや北欧諸国はドイツが化学兵器を満載した爆撃機を自国に差し向けるのではないかと懸念しています。今回、ドイツが 使用した神経ガスは強力であり、英国は同種のものは未だに開発に成功していません」
「我が国なら作れるし、解毒剤もある程度は用意できるが……」
「ドイツをますます追い詰めるだけなのでは?」

 阿部の問いかけに杉山は渋い顔をする。

「だがイギリスとフィンランドは対独戦略上、欠かせない。それにイギリスの政情は安定しているとは言えん。梃入れは必要だろう ……非常に不本意だが」

 杉山も好き好んで唾棄すべき裏切り者に支援などしたくはなかった。
 英本土とアフリカで死んだ英霊達も考えれば、彼ら軍人にとってイギリスは敵だった独伊よりも憎い存在なのだ。いや、日本軍人の中で 血を流した同盟国を平然と切ったイギリスを許した人間などいないだろう。
 だが英国は責任者であるハリファックスが全ての責任をとって辞職するというケジメをつけ、以前では信じられない程、日本に対して 腰を低くしていた。 また日本の国家戦略上、イギリスを味方に留めておかなければならないことを多くの高級軍人達が理解しているためイギリス支援に異を唱えないのだ (積極的に賛成しているわけではない)。
 一方、支援される側のイギリスは、戦災と天災からの復興に苦しんでいた。ただでさえ対独戦で陸空軍は壊滅し、イギリス南部は空襲で多大な 被害を受けていたのに津波まで受けたのだ。その後、外交で立ち回って何とか列強の地位には留まったものの問題は山積みだ。
 そんな状況でさらにこの大寒波の直撃を受けたのだ。市民の不満が溜まらない訳がない。

「ただでさえ現政権は不利だというのに……」

 ため息しかでないとはこのことだった。

「オズワルド・モズリー率いるBUF(イギリスファシスト連合)の躍進が予想されています」

 田中の説明に何人かが顔を顰める。イギリスでファシスト政権が樹立され、親ドイツ路線に舵を切ればこれまでの投資が無駄になる どころか、泥棒に追い銭となる。

「彼らは親独路線をとらないのかね?」

 杉山の半信半疑な視線を受けた白洲と田中は視線を交わした後、頷く。

「モズリー氏も、今、再び日本を裏切れば連合王国が終焉を迎えることを理解しています。従来の路線を引き継ぐでしょう」
「情報収集によれば、モズリー氏はカナダの復興事業に日本企業を参画させることで、日英関係強化とカナダの復興を図っているとの ことです。むしろかの人物は日本が英国を切れないように雁字搦めにすることを狙ってくることが予想されます」
「ふむ……英国から聞かされたように、中々に手強いプレイヤーですね」

 辻は少し面白そうに口をゆがめる。

「まぁまた馬鹿な真似を政治家がしたら……軍人達が今度こそクーデターを起すでしょうし。しかし一度は表舞台から退場させられた 人間が復活するとは」
「何はともあれ、ポーランドの惨劇がイギリスや北欧で再現されないために手を打ちましょう」

 この嶋田の意見を受けて、ドイツの化学兵器に関する情報の共有、対空兵器の共同開発の打診、また日本が持つ解毒剤の輸出 などが決定される。

「それとヨーロッパの人々(ドイツ勢力圏除く)が安心して寝られるように、疾風の公開を前倒ししましょう。具体的には 栗田艦隊が英本土についた時に。まぁこちらは英国と協議する必要もありますが」

 この嶋田の意見に何人かが笑う。

「ドイツ空軍が卒倒するぞ」
「それが目的ですよ、杉山さん。連中がいくら化学兵器を振りかざしても、それを絶対阻止できる力があると思わせることが 出来れば十分に効果があります。それに、その方がポーランド政府も説得しやすい。ドイツ人の目と鼻の先で、奴らの軍備が時代遅れで あることを示し、その圧力を背景にポーランド自治領問題でより前向きな回答を得ます」
「ふむ」
「それに、これはイギリスへのメッセージにもなるでしょう」
「確かに。しかしイギリス人は旧式機を売りつけられたと怒らないかね?」
「お得意様には超烈風を優先して納入してやると言ってやればいいのです。ただし『価格』については交渉次第と言いますが」

 まるで辻のような台詞を口に出す嶋田に、辻を含む出席者が大笑いした。

「まぁ大演習の目玉の一つを先行公開することになりますが、仕方ないでしょう」

 この辻の台詞に、事情を知る面々がニヤリと笑う。

「『彼ら』の訓練は順調ですか?」

 嶋田の問いかけに、辻は即答する。

「航空隊のほうは大丈夫です。ですが潜水隊はやはり時間が足りません。本番は教官達が乗る必要があるかも知れません」
「ふむ」
「ですが枢軸の度肝は抜けます。こちらの手がどれだけ長いか、彼らは思い知るでしょう。そして彼らは海を渡るリスクというのをよく理解 するでしょう。それに有色人種を見下すのが如何に危険であるかも」

 そういって辻は倉崎の若社長を見る。

「これで倉崎重工の商機が増えますね。それともこれを見越してですかね?」
「いえいえ」

 微笑みを浮かべる潤一郎。しかしそこには賭けに勝った男がいる。
 マッドではないものの、技術についての造詣も深いこの社長の商才は先代を超えていたと言えるだろう。

「まぁまずは枢軸の本拠で、いや正確にはその目と鼻の先で、彼らの度肝を抜いてやりましょう」
「だが、まずは緑の革命についてではないかね?」

 近衛の言葉に辻は頷く。

「確かに」
「我々と敵対するより、友好を維持するほうがよほど利益になることを世界に知らしめるとしましょう。それこそが我が国にとって 最大の安全保障となります」

 この嶋田の言葉をもって会合は閉会となり、大日本帝国は動き出した。






 あとがき
お久しぶりです。提督たちの憂鬱外伝 戦後編11をお送りしました。
ポーランド事変は当面は隠蔽されます。まぁいずれは公開されますが……。
このおかげでドイツ本国の目と鼻の先で疾風が飛ぶことになります。
場合によっては友邦フィンランドの上空で、デモ飛行をするかも知れません。
肥満気味の国家元帥も、冷や汗でやせれるかも知れません。
しかしカリブ海演習で公開する札はまだあるので、ドイツ軍の受難は終りません。
二枚はインドをかき乱したお礼(?)になるイギリスとの共同作品(?)、それにまだ明らかにしていない札も……。
ドイツ海軍のSAN値が大変なことになりそうです(汗)。
しかし話が進まない(核爆)。
それでは戦後編12でお会いしましょう。