提督たちの憂鬱  第59話


 西暦1943年6月6日。カリフォルニア共和国サンフランシスコに入港した戦艦長門の艦上で大日本帝国とカリフォルニア共和国は 実質的な日米講和条約『サンフランシスコ条約』を締結した。
 この条約で日本はカリフォルニア共和国を承認し、さらに人類共通の脅威であるアメリカ風邪封じ込めのためにカリフォルニア共和国 への各種支援を行うことになった。さらに日本帝国政府は、カリフォルニア共和国政府には旧連邦政府の問題(戦前の態度やアメリカ風邪の 原因となった生物兵器開発)に関して責任を追及しないことを約束した。

「彼らは旧アメリカ合衆国の一州であったが、合衆国の後継者ではない」

 日本政府はカリフォルニア共和国を、あくまで新国家として扱った。
 それはつまり、アメリカ合衆国の負債を彼らは継承していないことを意味していた。ただし負債を継承しないということは旧連邦の 遺産の相続を放棄することも意味していた。

「くっくっく。さて、あとはこちらのターンですよ」

 辻が黒い笑みを浮かべているように、日本は手薬煉を引いて旧アメリカ合衆国の遺産を接収する準備を進めていた。領土については すでにアラスカやハワイ、グアム、ウェーキなどの太平洋の領地を支配下に置いていたが、彼らはそれで満足するつもりはなかった。
 彼らは今後の帝国の繁栄のため、各種特許については重点的に狙っていくつもりだった。

「ワシントンDCが消滅して、彼らの特許は半ば消滅したも同然。ここで一気に攻勢に出て主だったものは押さえておきましょう」

 コンピュータ、自動車、家電に関わる技術、そう20世紀後半の帝国繁栄を支えるであろう技術、特許の接収は最優先課題だった。
 加えて日本はカリフォルニアを『アメリカ風邪の戦犯』としない代わりに、カリフォルニア共和国市場の全面開放と旧米軍の技術解析のため 戦艦ワシントン、空母エンタープライズを筆頭にいくつかの兵器を日本側へ貸し出すという条件などを呑ませた。
 これにはカリフォルニア側からも反発もあったが、中華民国相手に要求したように莫大な賠償金や領土の譲渡などを要求しないことだけでも 十分な譲歩だと日本側は言いきった。

「旧アメリカ合衆国が我が国に突きつけたハルノートよりはよほどマシな条件でしょうに」

 日本側の言葉にカリフォルニア共和国側の人間はぐうの音もでなかった。実際、事実上の敗戦国であるカリフォルニアに対する条件にしては 随分と甘いものだった。第一次世界大戦でドイツのように莫大な賠償金を押し付けられたわけでも、軍備を制限されたわけでもないのだ。
 加えてアメリカの崩壊があまりに早かったために失われた技術も多々あり、今後、工業国として復活するためには他国の支援が必要だ。しかし 再び寝返って日本に媚を売るイギリスは当てにできないし、ドイツだって日本との関係悪化を招いてまでカリフォルニアに肩入れするとは 思えなかった。よって選択肢は日本一択だった。
 さらに必要以上に日本との関係を悪化させれば、メキシコの二の舞になるのは目に見えている。

「これが敗戦国の悲哀、か」

 カリフォルニア政府首脳部の多くはこうなることは判っていたが、気落ちする。しかしそうでもしないと国が滅ぶことは彼らも判っていた。 自分達では迎撃すら適わない超重爆『富嶽』、自分達の戦闘機など一ひねりできる烈風改。これだけでも脅威なのに海軍力ではさらに引き離されている。 日本と開戦すればドイツから救援が来る前にカリフォルニアは焦土と化しているだろう。さらにドイツに靡けば、カリフォルニアの自由な風土は失われる。 枢軸国の勢力圏になった領土でどれだけ苛烈な支配が行われているかを聞けば、彼らでも枢軸につくのは躊躇われる。逆に日本は黄色い猿であるものの、 アメリカの『自由』を尊重するのだ。どちらについても地獄だが、大西洋大津波による被害を受けず余裕があり、さらに自分達の文化や精神を尊重して くれる日本につくほうがまだマシ……彼らはそう思い、自分を慰めた。

「まぁ何とか日本から支援を引き出せる。これで立て直せるだろう。そして我が国の名誉も、今は亡き合衆国の精神も保たれる」

 一方、ハーストは元気、いや落ち込む暇も無く仕事を進めていた。彼は自分の執務室で書類を読み進め、一定の結論を下した。

「日本はこちらの後援を約束した。短期的には赤字になるだろうが、工夫次第では長期的に黒字に持ち込むことも出来る」

 日本から得られるものは多い。軍事、経済、政治、全ての面で彼らはカリフォルニア共和国を後押しすることが約束している。
 日本帝国は最終的に本国に戻れそうに無い自由ポーランド軍、それに自由フランス軍の一部を中心にした外人部隊を再編し、カリフォルニア への駐留を行うことにしていた。勿論、数では足りないので日本陸軍も部隊を出すが、問題が起きないように北米総軍の司令官は(史実では)民政に 定評のある今村均が任じられた。装備も最新鋭兵器ばかりだ。この大戦で日本が示した圧倒的な戦闘力も併せれば、かなりの抑止力となる。
 また抗生物質などの必要な医薬品をカリフォルニアに同盟国価格で優先的に供給してくれるのだ。これを使えばカリフォルニアを 西海岸で随一の国家とするのは不可能ではない。

「それに日本企業が多数進出するとなれば、彼らを守る義務が日本に生じる。日本企業は我が国の安全を担保する存在となる」

 ハーストと財界人は逞しくも富を守る、いや、さらに蓄えるために動き出そうとしていた。
 彼らが守るべきは自分の命と財産なのだ。この緊急時において糞の役にも立たない『白人のプライド』とやらを守って野垂れ死に する気は彼らに皆無だった。

「日本企業による我が国の企業の乗っ取りを防ぎつつ、何とか彼らとツテを作って太平洋の市場に参画せねば……」

 まったくと言って良いほど信用できないが、利用はできる華僑系資本、さらに蘭印にある自分達の資産。これを活用して彼らは 復活を目論んでいた。

「あとはあのデカ物の金食い虫どもだな。いずれワシントンもエンタープライズも帰ってくるが、今のカリフォルニアでは保存艦が関の山。 いっそのこと英国に有料で貸し出すというの良いかも知れん。あの『似非紳士』どもはいくらでも兵力が欲しいだろうからな」

 意地の悪そうな顔をして金策を練るハースト。そこにはこの厳しい状況下にも関わらず諦めの色がなかった。

「我々はまだ生きている。故にチャンスはある。だがチャンスとは目を見開いていなければ物にはできない。だとすると、まずは日本語の勉強からか。 何か良い本はないか探さなければならないな」

 『アメリカ』を売った男は、皮肉にも或る意味で『アメリカ人』らしく不屈だった。
 そしてこの男は再び財産を築き、その過程で国をも富ませ……市民の支持を背景にして、この国の大統領にまで上り詰めることになる。
 尤もその男の机の引き出しに、何故か日本の漫画風の美少女が表紙に描かれた分厚い本(辞書?)が置かれていたことは、幸運にも誰も 知ることはなかった。




 サンフランシスコ条約(日本では水無月条約とも言われる)の締結とメキシコの戦後処理をもって日本の戦いは終った。
 日本帝国政府は戦争の終結を宣言。同時に動員を解除し、兵士の復員を進めることになる。これを受けて日本帝国は各地でお祭り騒ぎだった。
 カリフォルニア共和国からは賠償金こそ取れなかったが、代わりに幾つかの利権は得られたし、カリフォルニアをほぼ衛星国とすることが出来た のだ。国民は白人世界の大国であるアメリカを完膚なきまでに打ち負かし、その残滓を自分達の下に置くことが出来たという事実に満足した。

「帝国はアメリカに勝ったぞ〜!!」

 新聞が号外を流し、TVやラジオのニュース番組はこぞって終戦を告げた。
 それは冬戦争以降続いてた『日本の戦争』の終わりを告げるものでもあった。

「これで戦争はおしまいだ!」

 誰もが喝采を挙げた。まして日本は戦争に勝ったのだ。国民の喜びもひとしおだった。さらに日本はライバルであったアメリカを完全に滅ぼした。 それは日本帝国が太平洋帝国となったことを、三大洋のひとつを日本人は支配下に置いたことを意味していた。

「太平洋経済圏は日本の円ブロックに組み込まれる! 貿易を円で決済できる!!」

 企業家や投資家達はそういって喜んだ。
 太平洋では日本の円こそが基軸となるのだ。ドルは消え(カリフォルニアドルは残るが)、ポンドは価値が落ちる一方。これに比べて日本の 円の価値は天井知らずだった。何せ日本は世界最強の海軍を持ち、さらに大西洋大津波や戦禍によって被害を受けていない各種インフラをもつ 唯一の列強なのだ。

「これからは日本の時代だ!」

 そんな声が日本の朝野では溢れていた。だがそんな声を冷ややかに見守る男達が居た。

「……世間は明るそうですね」

 首相官邸の嶋田の執務室では、ソファーに座ったまま辻が苦笑していた。これを聞いた嶋田は仕事をしつつ頷いて同意する。

「ですね。それにしても水無月条約とは……全く戦後の仕事が山積みである我々に対する嫌味ですかね?」

 水無月の由来には諸説があるが、そのうちの一つが田植という大仕事を仕終えた月「皆仕尽(みなしつき)」であるという説だ。大戦という 大仕事を終えたという意味では確かに的を得ているかも知れないが、今後、田んぼの手入れや収穫作業を考えなければならない人間達から言わせれば 文句の一つも言いたくなる。

「まぁ私もあと首相でいるのは1、2年。これで全ての処理を済ませて、戦後世界のグランドデザインを示さないと」
「それと元帥になってもらいますよ。何しろ嶋田さんは対米、対中戦争を勝ち抜いた宰相なんですから」
「仕事を押し付けるためでしょうに」
「いえいえ、他の面々も貴方の仕事ぶりを評価されていますよ。それにこれは正統な報酬と誰もが思いますよ。貴方は負ければ全てを失い永遠に 罵倒され続けられることになる立場を引き受けた。そして我々のサポートがあったとは言え、最小限の犠牲で米国と中国を降した。これだけの 功績を立てた嶋田さんが元帥にならなかったら、今後誰も元帥になれませんよ」

 衝号作戦は一か八かの賭けだったし、もしも中国に深入りしていれば悲惨な目に合っていた可能性が高い。少なくとも今ほどの余裕はなかった かも知れない。

「あと東郷元帥にならって伯爵を授爵することになるでしょう」
「伯爵ですか。随分と大盤振る舞いですね」
「大日本帝国海軍元帥にして帝国伯爵。宮様の次に、夢幻会の纏め役をするとなればこの位の箔は必要ですから」

 伏見宮の寿命がもう尽きるというのは誰もが知っていた。
 仮に史実とズレたとしても、数年程度。その次に夢幻会の纏め役となる人間が必要になる。だが今や帝国中枢を押さえる夢幻会の纏め役と なると生半可な人間では務まらない。
 その点、嶋田は打ってつけの人材だった。海軍の長老で実績もある。さらに政治的野心もないし責任感もある。組織の長に必要な調整能力もある。 そんな人材を会合が逃すわけが無かった。

「軍神は古賀君や小沢君だと思うがね……」
「彼らだと山本さんは押さえられませんよ。『軍神』である貴方なら、可能でしょう?」
「ふん」

 山本はそのカリスマと持ち前の軍政家としての能力で海軍省内部にその存在感を示していた。加えて陸軍でも大陸での戦いで世話になった山本を バックアップする者もいる。

「……さすがは史実の偉人といったところか」
「ええ。全く、我々凡人からすれば羨ましい限りですよ」
「私は貴方が凡人とは思えませんがね。まぁ彼のような人材がいれば帝国も安泰でしょう。先が見えない未来を生きなければならないのですから。 それに……野党なき与党は腐敗すると言います」

 そう言って嶋田は初めて手を休めた。

「それにしても、日本の未来に重大な影響を与えるのが枢軸国、英国との首脳会談。全く……ヒトラー、ムッソリーニ、ハリファックスといった 世界のメインプレイヤー達と真っ向から向き合うのは気が重い。ヒトラーがまだ健康というのも怖いですね」
「歴史が変わったせいでしょう」
「やれやれ……史実では滅び去った枢軸国首脳が世界の命運を決める会議を、よりにもよって旧アメリカ合衆国領内で開くとは。ブラックジョークですかね?」
「歴史の皮肉という奴でしょう。尤も、彼らが今年中に北米に集まれるかどうかはソ連の動向次第でしょう。彼らは大反攻を目論んでいるようですから」
「……ソ連との貿易協定、これの見直しも必要になる可能性が高いですね」
「ソ連とドイツが講和、いえ停戦すれば問題ないですよ」
「そんな方法があると?」
「尾崎さんと情報局から面白い情報が入っています。いずれ会合で話しますが……」

 その後の話を聞いて嶋田は顔を顰め、そしてさらにため息をつき、机に突っ伏した。

「……辻さん、私、歴史の教科書になんて書かれると思います?」
「……そうですね」

 しばしの間、黙考する辻。そして一つの単語を思いついたのか口を開く。

「『ぼくがかんがえたさいきょうのていとく』?」
「がは?!」

 嶋田は斃れた。精神的に。
 だがすぐに立ち直る。彼に無駄に倒れている暇はないのだ。

「しかし独ソを共倒れさせる、あるいはソ連を解体する戦略はどうするのです?」
「一時棚上げが良いでしょう。これ以上、手を広げるのは難しい。シベリアと北米でドイツと睨みあいなんて御免ですよ。 精々、ソ連には緩衝地帯として生き残ってもらいましょう。まぁそのためにはこれ以上戦争を続けられると拙い……そういうことです。 我が国とドイツのこれ以上の膨張を嫌うイギリス、そして息切れしているドイツもこれに賛同するでしょう」

 このとき嶋田の脳裏に、倒れることもできず、柱にくくりつけられて無理やり生存させられるソ連(スターリン)というシュールな絵が目に浮かんだ。

「それで表向きは私が仕掛けた、そういうことになると?」
「ええ。帝国軍を率いて陸軍国・中国を降し、海軍大国・アメリカを滅ぼし、人類の敵・メキシコに史上初の核爆弾を落とし、策謀で 悪名高い赤い帝国・ソ連のトップを失脚させた日本帝国の独裁者。なかなかに面白いでしょう?」
「……そしてその独裁者は、やるべきことを終えると名誉と引き換えに素直に権力を捨てた、と。今後の対策ですか?」
「ええ。宮中からも呼び出しがあると思います。全ては二匹目のドジョウを狙う人間への対策でもあります」
「そんな動きが?」
「ええ。それにどこの誰かは知りませんが、夢幻会の情報が漏洩しています。権力に目が眩んだ輩が良からぬ策謀を張り巡らせている との噂もあり、現在調査中です」
「……下手に権力を得ても、自滅する可能性が高いというのに」
「自分こそ、権力を振るうに相応しい、又はその地位を得ることで甘い汁を吸えると思う輩が多いのです。そんな輩からすれば列強筆頭である帝国の 政府を統括し、世界最強の帝国軍を陛下に代わって統帥できる帝国宰相の座は、涎が出るほど手に入れたいものなのでしょう。いえ、たとえ実態が 伴わず、夢幻会の傀儡であってもその地位に座ってみたいのかも知れません。操り人形であっても表向きは大きな顔が出来ますし」
「そんなに物事を単純に考えられるとは、何とも羨ましいものだ」

 嶋田は頭痛を覚えた。

「あとは、陰に隠れながら帝国を動かしてきた夢幻会を警戒する動きもあります」
「……なるほど。だとすると、ますます私が宰相の地位に固執するわけにはいかない」

 嶋田は表向き独裁者なのだ。そしてその背後には帝国を牛耳る秘密結社が存在する。その彼が権力の座に居座るとなれば、心ある者達は 危機感を覚えるに違いない。多大な功績をあげているとは言え、一個人、或いは一組織に帝国を牛耳らせるのは危険すぎると誰もが思うからだ。 実態は違うが、内情を説明しても彼らが納得するとは限らない。たとえ真実が存在しても、それを他者が真実と認めなければ、それは虚実なのだ。

「『夢幻会』。この組織はこの時代に生まれた者にとっては『夢幻』のような存在であるが故に、美化または過大評価されるということか」
「過大評価されるのは組織だけではないと思いますよ?」
「………」

 後世の歴史の教科書で、特に外国の教科書で自分はどのように記されるのかと考えると、嶋田は薄ら寒いものを感じた。

(少なくとも、実態とは全くかけ離れた姿が記されるんだろうな……)

 寒気を感じた嶋田は、それを振るい払うべく辻に皮肉を言った。

「それにしても、あれだけ毟り取ったスターリンを今度は用済みだから『処分』とは。魔王の面目躍如ですね」
「これ以上、彼が居座ると帝国にとって『赤字』になるようなら排除も止むを得ないでしょう。ああ、それと彼の後継者達からはさらに毟る 予定ですよ。ソ連、かの国には経済的植民地になってもらうつもりです」
「……共産主義国家を資本主義国家が支配するんですか」
「ええ。何しろかの国は産業基盤がボロボロ。軍需産業ですら傾きつつある。そして列強には余裕は無い。付け込む隙は多いと思いません?」
「ソ連共産党は日本製品の取り扱いを独占することで延命できる、と?」
「破壊されたインフラの復旧も『適正な価格』で我が国が行い、その維持も日本抜きでは出来ないとなれば……彼らは当面は日本に逆らえないでしょう」
「そしてソ連はその費用を、奴隷が採掘する資源(貴金属、レアメタル含む)で賄うと」
「実に素晴らしいじゃないですか。大陸国家の弱体化、中ソの分断、ソ連の経済支配、共産主義のネガキャンも同時に行えるのですから。それも 表立って非難されることなく」

 この場では言わないが、他にも様々な謀略を辻は仕掛けるつもりだった。そのことをある程度察した嶋田は、乾いた笑みを浮かべるしかなかった。

(まぁ相手が悪かったと思って諦めてくれ)

 こうしてスターリンとソビエト連邦の運命は決定された。
 そんなことを知る由も無いスターリンは、己の政治生命を賭けて最後の大博打である大反攻作戦『バクラチオン』を、この1ヵ月後に発動した。この 稚拙な反攻には異論も多く出たが、独裁者スターリンはそれを封殺した。

「我が軍は十分な兵力を保持している。ファシスト共をたたき出すには十分だ!」

 スターリンはそう言って慎重派を押し切った。
 こうして日本から購入した工作機械を酷使して生産した兵器、このときのために必死に備蓄していた軍需物資を湯水のように使ってソ連軍は初めての 大規模な反攻作戦に打って出た。
 そう確かにスターリンの言うとおり、赤軍は書類上の数では十分な兵力を保持していた。だがその内実はお寒い限りだった。
 トラックや列車など兵站を支えるものは不足していたし、戦車ではカタログスペックを発揮できるものは殆ど無い。T−39、T−44に加えIS−2 重戦車も数こそあったが、質はソ連の国情を反映したものだった。砲はすぐに暴発、装甲はすぐに砕け、エンジンは焼きつき、関連部品もあっさり 壊れる等など、悪夢のような光景があちこちに溢れていた。航空機に至ってはそれに輪を掛けて悪く、エンジンが動かない、滑走路の上で分解するような 機体があちこちの部隊に配備されていた。
 そんな状態で士気も上がる訳が無い。さらに開戦以降の将兵の消耗も激しく、前線の兵士達の練度も高いとは言えない。どこまで今の赤軍が戦えるか は未知数だった。

「これで戦えるのか?」

 ジュコーフを筆頭に赤軍将校が顔を引きつらせる中、ウクライナ奪還を目指して赤軍最初の、そして最後の大反攻の幕があけた。
 この南部でのソ連軍の反攻に対処したのは、史実では『総統の火消し』と言われ名将と誉れ高いヴァルター・モーデルだった。ヒトラーの厚い信頼 を受けたこの将軍は、考えられる限りの支援を受けて指揮にたった。

「これを凌ぎきれば、ソ連にはもう戦争を続ける力は残っていない。ここが正念場だ」

 祖国の興廃この一戦にあり。その発言とヒトラーの肝いりで配備された強力な兵器が前線の士気を高めた。
 ソ連地上部隊にとっての死神とも言えるルーデルには、新型のDo335双発戦闘機・プファイルD−1が、ゲルハルト・バルクホルンなどの エースパイロット達にはBf109GやFw190が可能な限り与えられた。
 これらの贈り物に、ルーデルは特に喜んだ。

「こいつは凄い」

 プファイルD−1は748kmという並の戦闘機以上の最高速度を誇り、武装もモーターカノンの30mmMK103機関砲1門と主翼に50mmBK5 機関砲2門を載せるという重武装を誇っている。これが『魔王』と称されるチート軍人である彼に渡ったのだ。このときをもって赤軍の悲劇は約束された。
 そして戦車も数こそ前線が望んだほどではないが、これまでとは比べものにならないほどのティーガーやパンターが配備された。ヒトラーもこの 一戦が重要であることを理解し、軍需省、陸軍参謀本部に命じて可能な限りの兵器を東部戦線に回したのだ。

「これだけあれば日本軍とだって互角以上に戦える」

 ミハエル・ヴィットマン、オットー・カリウスなどと言った戦車のエース達もそういって喜んだ。
 尤も彼らのライバルとされた日本陸軍関係者、特に夢幻会関係者が彼らの言葉を知ったら、間違いなく「過大評価です」「真っ向からの勝負は お断りします」と言うだろう。何しろ彼らが如何に人外な存在であるかをよく理解していたからだ。
 まぁ何はともあれ、こうしてユーラシアの二大陸軍国独ソはその総力を結集して南方戦線で全面衝突した。







「始まりましたね」
「ええ」

 夢幻会の会合では、史上最大の会戦の始まりを受けてある種の熱気に包まれていた。
 陸軍関係者はこの独ソの命運を賭けた戦いに興奮していたし、陰謀を進めていた者達は『発動』の時期が来たことを理解し緊張していた。

「英国は?」

 近衛の問いに田中が答える。

「彼らも準備は整えたとのことです。英軍及びカナダ軍は旧国境沿いに展開を開始しています」
「航空隊は?」

 この問いには嶋田が答える。

「第11航空艦隊は西海岸に、一部は先行してカナダに展開済みです。富嶽はハワイに展開済みです。さらにアラスカには 富嶽運用のために飛行場の設営を進めています。空中給油機の配備も順調です」
「各国は何か言ってきましたか?」
「表向きはニューヨークやワシントンDCなどの東海岸の除染ということにしています。真の目的が漏れた気配はありません」
「そうですか……では」

 近衛が見渡すと辻がニヤリと笑って頷く。

「はじめましょう。戦争を終らせるための悪巧みを」

 西暦1943年7月31日。カナダ国内で共産シンパによるテロが発生した。
 大西洋大津波以降、低迷する経済と遅々として進まぬ復興が共産シンパを増やしたというのが大方の見方だったのだが、カナダ軍によって 一つの共産ゲリラの拠点が制圧された際、共産ゲリラ、それも旧アメリカ人による恐るべき計画が明らかになった。

「旧アメリカ人の共産主義者が、アメリカ風邪を兵器として利用しようとしている」
「旧五大湖工業地帯の中に、未だに稼動している施設があり、それを利用する者がいる」

 この緊急発表が行われると世界中が震撼した。

「濡れ衣だ!」

 スターリンはそう主張した。だが彼の受難は終らない。
 かつてソ連が旧アメリカ内の共産勢力に梃入れしていたという情報が英国によって暴露されると、スターリンは一気に窮地に陥った。何しろ彼は 過去にアメリカに進駐する欧州軍、特にドイツ軍を嵌めるためにアメリカ内部に残っていた共産勢力に徹底抗戦を命じたことがあったからだ。
 これを見たヒトラーは勿論のことだが狂喜乱舞した。彼は日英に対して『人類の敵』である共産主義の総本山であるソ連との戦いを呼びかけた。

「共産主義の大本であるソ連を放置すれば、世界は再び危機に陥る。日英が我々と共に歩むことを期待する」

 実際、ヒトラーはそう表明した後、日英に対して外交工作を開始した。何しろ日英が対ソ戦に参加すればソ連は三方から攻撃を受ける。そうなればソ連が 持ち堪えられないことは明らかだった。

「独日英三国同盟の構築こそ、この混沌とした世界を再建する唯一の方法と言えましょう」

 駐独大使の大島に対し、ドイツ外相のリッベントロップはそう言って同盟の締結と対ソ戦への参戦を求めた。
 一方のソ連も黙っていない。彼らは公式ルートで弁明すると同時に、尾崎経由で夢幻会の最高意思決定機関である会合に直接働きかけた。

「ソ連政府はアメリカ風邪の拡散を望んでいない。また英国が発表したような指示は出していない」
「我が国は日本と変わらない友好関係を維持することを望んでいる」
「むしろこれは我が国と貴国との関係を破壊しようとする英独の陰謀である」

 彼らはそう主張した。日本国内では裏切り者である英国の発表ということで眉唾ものと思う人間も少なくなかったが、ソ連という赤い熊を信用する人間はもっと いなかった。そして夢幻会の人間はソ連よりも英国のほうを信用した。まして今回の陰謀を進めた者達にとってはソ連の主張などどうでも良かった。

「ソ連が関与したかは断定できないが、共産主義者はメキシコの末路から、何一つ学習していない。彼らは自分の思想や主義のためなら、人類を 滅ぼしても構わないと考えているのだろう」

 嶋田は記者たちの前で共産主義を辛辣に批判した。

「ですが総理、共産主義者が全てそうだとは」
「このような暴挙を生む人間の苗床になるだけで十分危険だ。私は個人の思想は尊重されるべきだと考えているが、それは公共の利益に反しない場合 だよ」
「……総理、もしもソ連の関与が認められれば、どのような対処を?」
「そのときは、『相応』の措置が必要になる。帝国軍はすでに準備を進めている」

 超重爆といわれた富嶽がアラスカに向かっていること、世界初の中距離弾道弾である三式弾道弾がシベリアに向けられたこと、そして 日本海に連合艦隊が集結し始めていることが明らかになるとソ連に激震が走った。
 さらに夢幻会は尾崎や各地のソ連のスパイを通じて帝国の内部情報をソ連側にリークした。それはソ連向けのメッセージであった。

「帝国陸軍ではこれを機に北進し、ソ連を撃滅するべきだという強硬論が台頭しているようです」
「海軍内部でも極東沿岸州を制圧し、日本海を内海にするべしという意見が出始めています」

 クレムリンの会議室は重苦しい雰囲気に包まれていた。

「夢幻会は?」

 スターリンの問いにベリヤが苦い顔で答える。

「彼らは悪戯に軽挙に及ぶべきではないと制止していますが、これ以上、何か起これば」
「……不可侵条約を破棄して、彼らが北進してくるとでも」
「……」
「イギリスに厳重抗議しろ。それと現地の情報収集を急げ」

 スターリンに出来ることは殆どなかった。彼に出来ることは夢幻会が強硬論を抑えることを祈ること、カナダの事件についてソ連が 無関係であると主張し、その裏づけをとることだけだった。
 しかしこの一件は完全にスターリンの失敗だった。スターリンがかつて北米で共産シンパを支援したということは他ならぬ真実なのだ。 支援した結果、この事態を招いたとなればソ連の責任とされかねない。完全な手詰まりだった。
 そしてそのことをベリヤは察していた。

(もはや、これまでだな)

 ソ連軍は必死に攻勢をかけているが、十分な防御陣地を構築し、防御に専念しているドイツ軍を突き崩せないでいる。そんな中、ソ連は 日英を、いや世界全てを敵に回そうとしているのだ。加えて共産主義のイメージはメキシコ人と同一視され失墜した。革命など不可能だ。
 これまでソ連が被った損害を踏まえ、誰かが責任を取らなければならなかった。誰かを生贄にし全ての責任を押し付けて関係を改善しな ければソ連が、いやロシアが生き残る道は無い。

「「「………」」」

 出席者の視線はスターリンに向けられていた。列強に差し出す生贄に関して異論はないようだった。

(あとはタイミングだな)

 ベリヤは不毛な会議を終えると、ただちに反スターリン派と連絡を取った。さらに部下を通じて日本の情報組織とも渡りをつける。

(同志レーニン。貴方の夢はどうやら無惨な結果で終りそうです。まぁ恨むなら、あのグルジアの髭親父を恨んでください)

 こうしてソ連政府要人はスターリンに見切りをつけた。あとは何時、彼に引導を渡すかだった。
 彼らはいかにソ連にとって利益を生む形でスターリンを失脚させるかで頭を悩ませたのだが、その考える時間さえ、立て続けに持ち込まれた 情報によって打ち切られることになる。

「日本と英国が、共同でカナダ防衛のためにアメリカ風邪に汚染されたとされる都市群への爆撃を開始しただと?」
「富嶽か?」
「いえ連山改などの既存の機体です。滅菌のためと言って新型焼夷弾を盛んに投下しています。五大湖周辺は火の海になっていると」
「……」

 五大湖周辺の都市群。かつてアメリカ合衆国という工業国の繁栄の象徴だった大都市群は、彼らが開国させた島国の飛行機によって灰燼に帰していった。 かつて臨時首都であったシカゴが、自動車の街と言われたデトロイトが、次々に炎に包まれていく。勿論、参加したのは日本軍だけではない。イギリス軍も 厳しい懐事情の中、爆撃機部隊を編成し『滅菌』作戦に従事していた。

「脅し、でしょう。富嶽を使わずとも、既存の爆撃機が中東の英領に展開しバクーを爆撃すれば……」
「「「………」」」

 反スターリン派の面々の脳裏に、連山改によって焦土にされるバクー油田の幻影が浮かぶ。しかしさらなる衝撃が彼らを襲う。

「嶋田総理の緊急声明だと? それに内容がメキシコに発せられたものと似ている?」
「はい。『極めて遺憾』という文言も盛り込まれる予定と」
「「「………」」」

 それは日本外務省のスパイ経由からの情報だった。そしてそれは日本がソ連に対して行動を起こす予告に他ならないと彼らは判断した。 ちなみにこれは完全な誤報であり、嶋田は『公式上』はソ連に対し軽挙妄動を慎むこと、そして北米の情勢安定化のために独ソに停戦を要請する 声明を出すことになっていた。だが彼らがそれを知るのは後のことだ。

「もはや一刻の猶予も無い」

 かくして1943年8月15日。クレムリンでは反スターリン派によるクーデターが勃発。スターリンは失脚し即日処刑された。 そしてスターリンを排除した新政権は直ちにドイツに対して停戦を申し込んだ。
 勿論、ヒトラーはその申し込みを蹴ろうとしたが、ソ連を完全に崩壊させると後始末が面倒であると周囲から説得され、さらに日本が 仲介の意思を示していることから、渋々という形で受け入れた。

「……止むをえん。共産主義者には精々、我が国と日本の緩衝材として役立ってもらうか」

 西暦1943年8月16日、日米戦争勃発から丁度一年が経ったこの日をもって、4年前から世界を包み込んできた戦乱に終止符が 打たれることになる。








 あとがき
すいません。完結できませんでした。
スターリンはここで退場です。さらに言えば共産主義というか赤い思想もほぼ終焉です。ソ連内部では 兎に角、国外では共産主義と協調する人間は殆どいなくなるでしょう。
それにしてもルーズベルト、チャーチル、スターリン、ド・ゴール。これらの史実の勝ち組が軒並み退場するとは…… 全く変わった話になりました(笑)。
それにしても、この世界では共産主義=危険思想扱いでしょう……マルクスが草葉の陰で泣いていそうだ(汗)。
次回の北米会談で、本当に終わりになります。
それではあと少しお付き合いの程を。
提督たちの憂鬱60話(最終回)でお会いしましょう。



あと今回採用させて頂いた兵器のスペックです。

Do335双発戦闘機 プファイルD−1
乗員:1名
全幅:13.78 m
空虚重量:7,010 kg
航続距離 1,300 km
最高速度:748 km/h
実用上昇限度:11,250 m
武装 30mmMK 103機関砲 × 1(モーターカノン)
50oBK 5機関砲 × 2 (主翼)