杭州湾から上陸してきた日本軍2個軍団によって、後方を遮断されたばかりか、彼らの排除に失敗した

ことで米中連合軍は上海に閉じ込められた。

 スティルウェルは日本軍を排除した後に無防備都市宣言をして上海を戦禍から守るつもりだったのだが

上海から移動できない状態で上海に無防備都市宣言を出せば自軍の居場所が無くなる。

 このため彼には上海に居座るしか道は無かった。


「このままでは上海が戦禍に晒される」


 スティルウェルは司令部の作戦地図を見ながら頭を抱えた。何しろ彼らが閉じ込められたのは東洋有数の

巨大都市にして国際都市だ。

 この街にはアメリカ人だけではなく、イギリス、フランスなど列強諸国の邦人も多数居住している。

 彼らは戦禍が上海に迫っているのを察知すると自国の租界に閉じこもっていた。

 だが日本軍が上海を攻撃すれば彼らも巻き添えになる可能性が高い。民間人を巻き添えにした市街戦など

悪夢であった。

 さらに仮に日本軍が攻撃しなかったとしても物流が遮断されたために、上海は何れは飢える。

 そうなれば大多数の中国人がどんな行動に出るか判ったものではない。


「……中華民国政府への救援要請はどうなっている?」

「ダメです。逆に救援要請を出されました。中国政府は、満州決戦に破れたことで恐慌状態です」

「満州には中華民国軍の精鋭が配備されていたはずだが?」

「日本陸軍の実力は戦前の予想を超えたものでした。パットン少将は混戦に持ち込もうとしたようですが、逆に

 おびき出された形になり、日本陸軍に蹂躙されたようです。パットン少将の消息は不明。第1騎兵師団は壊滅。

 加えて中国軍も5個師団以上の兵力を失い、残存部隊も遼陽に閉じ込められた模様です」

「加えて各地で反政府組織や共産軍の活動が活発化しており、まともに救援を出すこともできないと」


 それは大敗、それもぐうの音も出ないほどの大敗であった。


「現地の指揮官は何をしていたんだ?! こんな一方的な敗北を被るとは」


 今の中華民国政府は主に奉天軍閥出身者によって構成されている。

 このため出身母体である奉天軍閥の拠点である満州を重視する傾向があり、満州には中華民国陸軍も質の高い

部隊が集められていた筈だった。

 このおかげで上海などに配備される兵士は質の低い者が多くなっており、米軍の足を引っ張っている。


「こちらの戦車、航空機は日本軍のものに全く歯が立たなかったそうです。加えて日本軍は何らかの方法で無線通信を

 妨害しており、無線を使った連携も封じられたとのことです。上海での航空戦でも似たような現象が起きているので

 日本軍が無線通信を妨害する方法を有していることは間違いないでしょう」

「信じ難い程の高性能戦車と航空機、それを効率的に運用するシステム。どれもこれも戦前の情報にはなかったな」


   スティルウエルは決して日本軍を侮っていたわけではない。しかしここまで強いとは思ってもみなかった。


(日本を挑発して開戦に持ち込んだのはとんでもない間違いだったのでは……)


 一瞬、そう思ったスティルウェルであったが、すぐにその考えを払いのけて、目の前の仕事に集中する。


「救援は絶望的。周囲は日本軍に包囲されている状態で逃げ場は無い……フィリピンのアジア艦隊は?」


 自分達の独力で事態を好転させることはできない、そう判断したスティルウェルはアジア艦隊に救援を頼もうと

考えて救援要請を行った。

 しかし帰ってきた返事は非情なものだった。


「フィリピンも大打撃を受けており、動ける状況ではないとのことです。加えて日本軍はアジア艦隊より優勢な

 艦隊を周辺に配置し、アジア艦隊の動きを封殺しているようです。封鎖網を突破するのは不可能だと」

「………」

「……加えて、本土では重大な災害が発生し、政府中枢が消滅した可能性があるとのことです。参謀本部に問い合わせ

 しましたが、全く応答がありませんでした」

「つまり、我が国は現在、無政府状態であり、指揮系統が完全に麻痺していると?」

「はい。無線傍受の結果、大災害は南北アメリカ大陸の大西洋沿岸地域全域に広がっており、欧州諸国も甚大な損害を

 被っている模様です」

「何と言うことだ……」


 スティルウェルは想像を絶する事態に頭を抱えた。同時にマッカーサーと同様、もはやアメリカという国が戦争どころ

ではなくなっていることを悟った。

 そして本国から救援の手が差し伸べられることがないことも。


「ハート提督とマッカーサー将軍は中将に潜水艦を使った脱出を勧めています。必要なら船も出すと」

「……私に、部下を見捨てて逃げろと?」


 スティルウェルは顔を顰めた。

 何しろ、ここで敵に背を向けるのは敵前逃亡に等しく、下手をすれば軍法会議だ。


「私は逃げない。ここで諸君を見捨てて自分だけ逃げれるわけが無いだろう」


 だが彼の言葉に対して真っ向から異を唱える人間が現れる。


「いえ、中将には脱出していただきます」

「……理由を聞こうか、ヴァンデグリフト少将」

「中将には、中国での戦いで何が起こったかを報告する義務があります。我々はこの地での戦いで多くのことを

 学びました。特に日本陸軍の能力、同盟国と見做してきた中華民国軍の不甲斐無さ、これは必ず伝えるべきです。

 今後、我が国が再建され、再び東アジアに進出した時に選択を誤らないためにも」

「……」

「軍人である私が言うのは、憚れますが、我々は組むべき相手を間違えたとしか言いようがありません。

 財界と現地を知らない政治家達が音頭を取って我が国はこの大地に莫大な資本を投下し軍事援助を行ってきました。

 ですが目ぼしい成果は得られていません。それどころか、我が国の足を引っ張ることばかりに熱心です」


 第二次満州事変の真実を知るスティルウェルは思わず頷きそうになった。

 
「……それで?」

「政府が再建された場合、日本に和平を請う可能性が高いでしょう。ですがワシントンに居なかった田舎政治家達の中には

 合衆国の力を過信し、さらに日本の力を軽視して戦争を継続しようとする輩もいるかも知れません。

 そして、もし世論がその動きに乗れば、我が国は日本の力を軽視したまま奈落の底に向い進撃することになるでしょう」

「つまり、私に大恥をかいてでも祖国に真実を伝え、そして最悪の事態を防ぐようにしろと?」

「そうです。確かに中将は、生き延びても辛い立場に立たされるでしょう。

 しかし、それでも在中米軍司令官たるスティルウェル中将閣下には、それを行う責務があると私は思います」

「………」


 スティルウェルは目をつぶり沈黙した。そして暫くの後、ゆっくりと目をあけて尋ねる。
 

「だがフィリピンから助けの船が来るまで時間が掛かるぞ?」

「それまではこの街を守り通して見せます。それが私の、最後の仕事になるでしょうが……」


 半ば死を覚悟したヴァンデグリフトの言葉を聞いて、スティルウェルは頷かざるを得なかった。


「判った。戦争をやめるにせよ、続けるにせよ、正しい情報は必要だ。私は真実を語る為に喜んで軍法会議に立とう」








           提督たちの憂鬱  第26話








 1942年9月4日、日本陸軍はいよいよ米国の中国進出のための牙城である上海の包囲を完了した。

 一応、日本陸軍は降伏勧告を行ったものの、米中連合軍はそれに応じず、逆に上海周辺に強固な野戦陣地を

築き上げて日本軍を迎え撃つ姿勢を見せた。


「米軍は上海に逃げ込み、徹底抗戦の構えを崩さずか……半ば予想通りだが、面倒なことになるな」


 東条は思わず顔を顰めた。

 何せ上海は国際都市であり、欧州列強の租界や邦人がいるため、攻める側としては攻め難いことこの上ない。

 下手に誤爆や誤射をすれば面倒なことになるのは目に見えているからだ。

 さらに現地に住んでいる中国人の数も問題だった。正直に言ってあの大都市で市街戦など冗談ではなかった。

 東条自身、先の会戦であそこまで叩けば、さすがの米軍も士気を喪失しているだろうと思っていたが、これまで入ってきた

情報から、米軍はまだまだ戦意を喪失したとは言えず、十分な戦闘力を持っていることが推測された。


(列強諸国は、本国が大変なことになっているから、文句をいうこと以上のことは出来んが……あまり下手な手を打つと

 嶋田や辻に絞め殺される。中国人殺しすぎて後世で上海虐殺だとか言われるのも癪だしな)


 この戦闘で数千人ほど中国人が巻き添えで死ねば、半世紀後には数十万人が殺されたなどと言われかねない。
 
 まぁ日米戦争で日本が勝てば、そんなふざけたことはそうそう言えなくなるだろうが、将来、この中華の大地を統治する

国家が反日教育を行うようなことがあれば、間違いなくネタにされるだろう。

 これに日本人を敵視する白人達が便乗すれば目も当てられない。


「列強の租界とは連絡はついたのか?」

「はい。向こう側は戦闘が終わるまで住民を租界から出さないようにすると。加えて日本軍に敵対する意思は

 無いそうです。むしろ戦闘後に治安が悪化した際には可能な限り迅速に治安の回復を図って欲しいと」

「やはり連中はこちらに面倒ごとを押し付けてきたか」


 事情を知る人間からすれば、この戦闘はいずれ日本が勝つことは明らかだ。

 しかしそれが誰から見ても明らかになった時にこれまで米国人の横暴に苦しめられてきた中国人が、反旗を

翻すことは十分に考えられた。

 さらにそれが大規模な暴動に発展するようなことがあれば、列強の不興を買いかねない。


(それに戦後を考えると、この地域の経済拠点である上海を灰燼に帰すというのは拙い。だとすると、目の前の陣地を

 速攻で叩き潰して連中の戦意を喪失させるか。あとは戦艦で威圧すれば、相手を屈服させられるかも知れん)


 上海周辺に構築されている陣地を短期間で叩き潰して実力差を思い知らせた後、戦艦の巨砲で上海を威圧すればさすがの

米軍も手を挙げるだろうと彼は判断した。

 日干しにするという手もあったが、上海を飢餓状態にもっていくと後々が面倒な上に、飢えた中国人による暴動が多発する

危険があったので選択できなかった。


「第25軍、第11軍に市街地への攻撃は極力避けるように伝えてくれ。攻撃目標はあくまで敵の野戦陣地だ」

「宜しいのですか? 上海市街にある米国租界を攻撃する、あるいは攻撃する素振りでもすれば敵を牽制できると思いますが」
 
「下手に誤爆したら抗日ゲリラが沸いて出るぞ。市街地で便衣兵の掃討戦など考えたくも無い。それに勘違いした連中が

 略奪行為を始めたら後始末が面倒になる。弾薬の無駄遣いがしたいなら、貴様が補給と財務担当者に直接交渉することだ」


 東条としては大規模な市街戦や暴徒化した中国人たちを鎮圧する面倒など引き受けたくも無い。

 味方の損失を抑えるために、上海で米中間のさらなる不和を誘うという手もあったが、露骨にやれば収集不能な事態に陥る

危険があったので、彼はその手は取らなかった。

 彼は石橋を叩いて渡るタイプの人間だった。


「それに上海で大規模な市街戦をすれば、米国側も後々面倒な立場になる。まして例の津波で米東海岸は壊滅している。
 
 ここで欧州諸国から恨みを買うような真似はこれ以上はしないだろう。それと宣伝工作は忘れるな。

 我が軍は無法な行為を命じるような真似はしないし、我が軍の命令を騙る人間には厳罰を加えることを喧伝しておけ。

 無法者が馬鹿な真似をしないようにな」


 しかし同時に東条は万が一、上海で大規模な暴動が起きたら、それを利用してやろうとも考えた。


「……服部大佐。もしも中国人が米国の租界で略奪行為を始めた場合、現地の特務機関を動かして民間人を保護しろ」

「民間人の保護ですか? しかし現地の特務機関だけでは大した数は」

「構わん。少数でも保護したという事実が重要なのだ。あと中国人がアメリカ人、特に白人を襲っている場面の
 
 写真か映像を収めろ。後で使える」
 
「閣下、それなら現地にいる赤十字も使えばよろしいかと。かの機関は国際的な信用もあります。

 それを逆用すれば、より効率的に世界中に反中感情を広めることもできるでしょう」

「ふむ……良いだろう。それでいこう。だが大佐、暴動を誘発するなよ」


 史実での服部の独断先行振りを知る東条はそう言って念を押した。
 

「勿論です。ご安心ください」
 




 
 9月7日、日本軍は上海の攻略に取り掛かった。

 日本軍が上海に迫ってきているとの情報はすでに上海中に広まっていたが、米軍が未だに十分な戦力を有していることと

上海周辺に構築された重厚な野戦陣地の存在によって、上海ではパニックが押さえ込まれていた。
 
 上海周辺に構築された野戦陣地は急造のものとは言え、在中米軍が残った力を全てつぎ込んで作ったものであり、そうそう

簡単に短期間で崩せるものではない……米中軍の将兵が誰しもそう思うほどのものだった。

 在中米軍は、野戦陣地が如何に堅牢な作りであるかを、様々な形で喧伝していた。

 だが彼らは自分達がとった戦術が如何に時代遅れなものであったかを、身をもっていることになる。

 日本軍は史実のソ連軍と同じように砲弾の雨を陣地に降らせ、砲撃の合間に台湾や周辺に造成した野戦飛行場、さらに上海の

沖合いに展開させた遣支艦隊の空母5隻から、500機に昇る航空機を出撃させて野戦陣地を空爆した。


「軍曹殿、こりゃあすごいですね。一体、何機飛んでいるんですか?」


 第25軍の兵士は、渡り鳥の群れのように自分達の頭上を飛ぶ自軍の飛行機を見て驚きを隠せなかった。


「第一波だけで100機以上を投入するそうだ。上は集中砲撃と空爆で短期間で決着を付けるつもりらしい。

お前も準備しておけ」


 この砲爆撃によって米軍工兵隊が埋設した対人地雷、対戦車地雷はその殆どが吹き飛ばされて地雷原はその機能を失った。

 さらに幾重にも設置された鉄条網は粉砕され、大量の土砂で対戦車壕は埋没し、工事が終わっていないものはこの世から

完全に消滅することを余儀なくされた。

 日中一杯途切れることなく続いた砲爆撃によって、防御施設の大半は砂上の楼閣のように脆くも消え去った。

 この猛攻から何とか生き延びることが出来た米軍兵士は感謝の祈りをイエス・キリストに捧げた。

 だがこれで辛い一日が終わると感じた米軍兵士は、すぐにその期待を裏切られることになる。

 太陽が完全に沈み、辺りが暗闇に包まれた時、突如として無数の照明弾が空中に打ち上げられ、周辺を一気に昼間同然の

世界に変えた。さらに対空戦闘で使用する探照灯が米軍陣地を照らした。

 強烈な光をいきなり浴びた兵士たちは、目を押さえてその場に蹲る。

 このとき、一時的に米軍は戦闘力を低下させた。これに付け込むように日本軍は進撃を開始した。

 強烈な光によって、機関銃座や野砲陣地は遠くからも丸見えとなっており、良いように砲撃されて撃破された。

 さらに工兵たちによって残っていた地雷や障害物が撤去され突撃路が確保されるや否や、戦車を先陣に立てて日本軍が

一気に丸裸同然となった陣地になだれ込んだ。


「全車突撃!!」


 第11軍所属の第2戦車師団の戦車第9連隊は、連隊長たる池田末男中佐の指揮の下で、米軍陣地に襲い掛かった。

 戦車が連隊規模で夜襲を仕掛けてきたことに米軍は慌てふためいた。

 何しろ野戦において夜襲を仕掛けること自体が稀なことであるのに、戦車が連隊規模で襲い掛かってきたのだ。

 彼らからみれば驚天動地の出来事だった。

 加えて戦車部隊の指揮官が池田中佐であったことも米軍側にとって不幸であった。

 何しろ相手は史実で占守島の戦いでソ連軍相手に奮戦した指揮官であり、戦車乗りとしても一流の人材だった。

 夢幻会としては教導官として後方勤務に当たらせたい人材であったが、さすがに実戦経験がないと拙いということで、この度

上海攻略戦に参加することになったのだ。

 何とはともあれ、池田中佐率いる第9連隊の猛攻で陣地に綻びが生じるや否や、その綻びに向けて大兵力が投入されていく。

 この綻びを閉じるべく、米軍は何とか援軍を送った。この中には前回の戦いで酷評された中国兵も混ざっていた。

 今回、米軍は督戦隊をつけて中国軍を後ろから監視していたので、中国軍兵士は逃げることは無かったが、練度と士気の

低さが災いして、大した戦果も挙げることなく日本軍に撃破されていった。

 尤もかといって米軍も日本軍の攻勢に対して大した反撃を行うことができなかったので、あまり偉そうな事は

言えない立場だったが。

 
「ダメだ。この陣地は保持できない! 撤退する!!」

「おい、まだ戦いが始まってから1日も経っていないんだぞ!?」

「だがこのままだと全滅だぞ!!」


 外周陣地を守っていた部隊は、最終的に日本軍の猛攻に抗し切れず後退を余儀なくされた。

 こうして上海周辺の野戦陣地のうち、外周部の陣地群は開戦後わずか24時間で破壊され、その機能を失った。

 そして外周陣地がたった1日で消滅したという報告を受けて、在中米軍司令部には衝撃が走った。


「外周陣地が一日で陥落した?!」


 ヴァンデグリフトは自分の聴覚に重大な障害でも発生したのかと一瞬疑った。

 次に誤報ではないかと疑い、何度か確認させたが報告が覆されることは無かった。


「信じられん。あの陣地は我が軍の持てる力の全てをつぎ込んで構築したものなんだぞ……それを」
 

 暫く茫然自失であったヴァンデグリフトであったが、何とか立ち直ると、幕僚達と事後策を練る。
 

「連中は照明弾で視界を確保し、探照灯で目潰しをした上で、戦車で夜襲を仕掛けてきたと?」

「はい。恐らく、外周陣地は常識外の夜襲によって混乱している内に、突破されたのではないでしょうか」

「ふむ……ということは内周陣地の兵にはサングラスなどを持たせて対応させるか」

「はい。日本軍が夜襲が得意であることが判れば、対応策はあります」

「よし、すぐに取り掛かってくれ。スティルウェル中将が脱出するまでは、何とか時間を稼がなければならない」


 スティルウェルは脱出を決断したが、すぐに脱出できるわけではなかった。

 在中米軍の艦艇、特に潜水艦は大半が破壊されるか機雷封鎖で身動きが取れなかったので、スティルウェルは

フィリピンに脱出するために崇明島を経由して、北側の対岸に移り迎えの潜水艦に乗ることになっていたのだ。

 しかし日本軍は長江を移動する船舶にも監視の目を光らせており、スティルウェルは脱出する機会がなかなか
 
掴めなかった。

 さらにフィリピンから迎えにくる潜水艦タンバーも、上海周辺に展開する日本軍の駆逐艦や哨戒機の目から

逃れるために頻繁に海中で息を潜めなければならないために到着が遅れていた。

 スティルウェルが脱出するまでの時間は稼げると思っていたヴァンデグリフトだったが、かくも簡単に陣地を

突破されたことで、その自信は揺らぎ始めた。

 しかし自身の不安を払拭するかのように、ヴァンデグリフトは頭を軽く振って呟いた。


「夜襲への対策さえ、何とかできればまだ時間を稼げる筈だ」


 ヴァンデグリフトは日本軍が夜襲の際に大量の照明弾や探照灯を使ったことから、日本軍も夜襲では昼間ほど

自由に動けないと判断し、兵士達にサングラスを持たせた上で夜襲に警戒するように命令した。

 探照灯による目潰しさえなければ、ある程度は戦えるとヴァンデグリフトは判断したのだ。

 しかし彼のそんな判断を嘲笑うかのような会話が日本陸軍第25軍司令部で交わされていた。


「また私の部隊で実地試験ですか」


 第25軍第18師団師団長宮崎繁三郎中将は、自身の上司たる第25軍司令官山下奉文中将の前で若干渋い

顔をしていた。

 尤も彼が渋い顔をするのも無理はなかった。彼は嘗て冬戦争で新兵器の運用テストのための部隊を率いてソ連軍と
 
北欧の地で戦ったのだ。何で自分の部隊で何度も新兵器のテストをしなければならないのかと思うのは当然だ。


「……まぁ渋るな。この装備が実戦でも使えると証明できれば、夜戦がより容易になる」

「それは判りますが……」


 宮崎は不承不承といった様子で納得した。それを見て山下は話を再開する。

 
「我々が今回攻めるのは、上海市金山区だ。ここの防衛線は情報分析の結果、周囲のものより脆いことが判明した」

「根拠は?」

「偵察機が撮影した写真と、情報局からの情報だ。

 特に情報局からの情報によると、ここの地区の陣地の建設に借り出された支那人から情報を聞き出したとのことだ」

「支那人が? 欺瞞情報なのではないのですか? 味方を売るような真似をするとは思いませんが」


 宮崎が眉をひそめながら尋ねると、山下は苦笑しながら答えた。


「情報局の連中も最初は疑ったそうだ。だが複数の人間から同じような情報が得られた上に、金を積んだらより詳細な
 
 情報を提供してくれた人間がいたおかげで確証がもてたそうだ」


 同盟国を金のために売るという行為に及ぶ人間がいると聞いて、その場にいた軍人達は呆れ果てた。


「国民としての最低限の規範さえ守れないとは……」

「前の会戦で連中の質が低いのは判っていたが、ここまでとは……」

「米軍も大変だな。あんなお荷物と一緒に戦うなんて……」


 第25軍司令部の幕僚や師団長達の中には思わず米軍に同情してしまう者さえ現れた。


「どちらにせよ、これは好機だ。何しろ我々は東条大将閣下の命令で一刻も早く上海を丸裸にしなければならない。

 諸君、ここでもたついていると北支那方面軍に笑われるぞ。気合をいれていけ」


 北支那派遣軍が遼陽で大勝利を挙げたことはすでに彼らにも伝わっていた。

 敵の半分の兵力で、完全勝利を挙げた彼らに対して、敵の倍の兵力を持ちながらも梃子摺るようなことがあれば
 
自分達の面子に関わる。


「それでは解散」


 かくして日本軍の攻勢が再開される。







 外周陣地が陥落した翌日、内周陣地も激しい砲爆撃を浴びて大打撃を受けていた。

 日本軍の夜襲によって手痛い打撃を受けた米軍は、サングラスを将兵に配って日本軍の夜襲に備えた。
 

「ジャップの卑怯者め。あんな手を使ってくるとは」

「だが、これで連中の卑怯な戦法も使えない。奴らが攻めてきたら、今度こそ叩きのめしてやる」

「そうだ。イエローモンキーどもに、白人の力というのを見せてやらないとな」


 兵士たちは手薬煉を引いて、日本軍の襲撃を待ち構えていた。

 しかし彼らが予想していたように、日本軍は照明弾や探照灯を使うことはなく、日本軍の戦線には弱い赤い光が

チラチラ見える程度だった。


「……静かだな」


 デビット軍曹は日本軍が全く動かないのを見て、不審に思った。

 最初、連中も疲れていて休んでいるのか、と思ったのだが、彼はすぐにそれは無いと判断していた。


  (あの狡猾な黄色い猿が、いや日本人が何もしないなんて考えられん。奴らは俺達とも中国人とも全く違う存在だ)


 デビットのような考えを持っているものは少なくなかった。

 これまでの戦いから、兵士達の何割かは日本軍と日本人が如何に異様な存在であるかを認識していたのだ。


(昔、我が国があの国に開国を迫ったのは、建国以来、最悪の過ちだったのかも知れない。我々は東洋に眠る

 悪魔を世界に解き放ったのだから……)


 そんな思考にふけていると、突然、近くの陣地から発砲音が聞こえてきた。


「どうした?!」

「はい、怪しげな人影が見えたので、探り撃ちをしたと……」


 だが部下の二等兵が答え終わる前に、陣地に接近していた日本兵部隊の火力が、件の陣地に集中した。

 探り撃ちをしていた兵士たちはあっという間に射殺されてしまう。

 
「畜生、連中はこの暗闇でこっちが見えているのかよ!?」


 デビットの部下の二等兵は反撃にでるが、その彼も瞬く間に集中砲火にさらされてその場に倒れた。

 この様子を見て、完全に士気を挫かれたのか、中国兵達が両手を挙げて塹壕から飛び出した。


「お前ら!!」


   デビットは止めようとしたが、すでに戦う意思を奪われた彼らは次々に手を挙げて塹壕から出て行く。

 一方、日本兵は銃を構えたが発砲はしない。


「連中、やはり見えているのか……」


 この時、米軍兵士も遂に抗戦の意思を失い、中国兵に続いて手を挙げて日本兵に投降していった。

 投降した兵士が日本兵の姿が漸く見えるようになった時に、彼らは日本兵の特殊な装備に気がついた。


「何だ、ありゃあ……あれが、暗闇の中でもこっちがみえる手品の種か」


 デビットが目を丸くして凝視した日本兵の装備こそ、陸軍が夜戦の切り札として投入した赤外線探照燈と

赤外線暗視装置だった。

 日本軍はこれらの装備を用いて、各地の陣地に奇襲攻撃を仕掛け、多大な戦果を挙げていた。


「奇襲攻撃は成功のようだな」


 宮崎中将は、師団司令部に齎される報告を聞いて胸を撫で下ろした。

 技術廠から太鼓判を押された装備であったが、実戦で使用したことがないものであったために、宮崎中将は

どうしても不安が拭えなかったのだ。


「それにしても、こんな装備を我が国で作れるとは驚きです」

「確かに。あの技術先進国のドイツでも、このような装備を作ったなどという話は聞いたことがない」


 幕僚達は今回の新装備の威力に素直に驚き、感嘆していたが、宮崎中将は別の考えを持っていた。


(確かに、この装備や、装備に使われた技術は素晴らしい。しかしこの技術を開発した技術廠の人間と話をすると

 まるで彼らが、日本人ではない、他国の人間のような気がする。それとも、こんな突拍子もないものを作るのは

 変人でなければ無理なのだろうか……)


 尤も、彼は自分がなすべきことを忘れておらず、すぐさま思考を切り換えて指揮に当たった。

 そして日本軍第18師団の猛攻によって金山区を守っていた内周陣地は、わずか一晩で陥落することになる。

 勿論、内周陣地がわずか一晩の間に陥落したことは、在中米軍司令部をパニックに陥れた。彼らは自分達が構築した

陣地が全く無力な存在であることを思い知った。だが思い知ったとしても彼らにはもはや打つべき手が無かった。

 この金山区を守っていた陣地が陥落したのを皮切りに、残った陣地も次々に日本軍によって陥落させられていき

上海を守る陣地は、あっという間に最終防衛陣地しかなくなった。

 しかしこのとき、ヴァンデグリフトはその目的を遂げた。そう、スティルウェルが脱出に成功したのだ。


「閣下は、無事に脱出されたか……」

「はい」

「そうか。これで、我々が抵抗を続ける理由もなくなったな……」


 ヴァンデグリフトは日本軍に降伏することを決断した。

 しかし彼の決断は若干、遅かった。日本軍によって米軍が一方的に敗退を余儀なくされているとの情報は、この時

上海中に広まっていたのだ。

 日本軍による突入間近……そういう噂が立つや否や、あちこちで不穏な動きが出始めた。

 アメリカ人たちによって痛い目に合わされてきた人間達が、戦争のドサクサに紛れて、これまでの恨みを晴らそうと

動き出したのだ。


「ヴァンデグリフト少将、各地で中国人が暴動を起こしています!!

 さらに、ちゅ、中国軍第12師団の一部の将兵が脱走し、我が国の租界に攻撃を加えています!!」

「何だと?!」


 日本軍が上海に突入してくれば皆殺しにされると思い込んだ中国兵の一部は、どうせ死ぬなら、これまで米国から

受けた仕打ちへの報復を行うと言わんばかりに米国の民間人への無差別攻撃と略奪行為を始めた。

 勿論、日本側は中国兵を皆殺しにするようなつもりはなかったのだが、大陸の歴史では、そのような残虐行為の例は

幾らでも存在する。

 さらに第12師団の兵士はもともと教養がない人間が多かったために、日本という国がどのような存在であるかを

知らず、これまでの歴代の中華王朝と同じように自分達を扱うと思い込んだのだ。

 一方、中国軍将校はもう少し常識的であり、日本軍が自分達を虐殺するとは思っていなかった。しかし同時に彼らは

大戦の敗北による中華民国の滅亡と東海岸壊滅によるアメリカの衰退が決定的になったと判断して独自に行動を開始した。


「この国はおしまいだ。それなら、出来るだけ金めのものを略奪して逃げおおせたほうが良い」

「アメリカ人を売り渡して日本に取り入れば、後の栄達も期待できる」

「他の連中も、日本へ媚を売るに違いない。それなら俺も急がなければ」


 打算と欲望に塗れた思考に基づいて、彼らはかつての友軍であった米軍をも攻撃した。

 最終防衛線で踏みとどまっていた米軍は、この内側からの裏切りによってあっという間に潰走し、防衛線は内側から

崩壊した。そればかりか米国の居留地では中国軍によって大量のアメリカ市民が虐殺される事件が多発した。

 この中国軍の暴挙に、『一部』の上海市民が同調した。

 日本の懸命の喧伝工作や、第1次上海事変での日本の対応を覚えていた者が軽挙妄動する人間をある程度押さえ込んだ

ものの、それでも全員を押さえ込むことは不可能だった。

 かくして上海では米軍が中国軍から脱走した部隊と暴徒化した上海市民を相手に市街戦を繰り広げることになる。

 この時、中国人による赤十字の襲撃や民間人への狼藉の様子はきっちり映像や写真に収められて、世界中に配信される

ことになる。


「始まったか」


 上海で米中相打つとの報告を受けた東条は嘆息した。

 個人的には、このまま中国軍と米軍を殺し合わせておきたいところだが、公人としての立場では、これ以上、上海を

無法地帯とするのは出来なかった。


「米軍司令部に降伏勧告を出せ」

「彼らが従うとは思いませんが」

「上海の治安が回復するまでは、武装解除は行わないことを伝える。実質は停戦だ。あと上海の暴徒を鎮圧するために

 戦艦を送るといってやれ。艦砲射撃をする前に米軍と各国の租界への連絡も忘れるな」


 勿論、これは米軍が上海に立て篭もるなら、艦砲射撃を浴びせるという通告でもあった。


「歩兵はどうしますか?」

「上海中心部には送るな。中国兵と間違われて撃たれたら面倒だ。米軍が放棄した最終防衛線付近で、上海の出入りを

 封鎖するに留める。ただし予想以上に米軍が梃子摺るようなら、直接介入を行う。準備は怠るな」


 こうして日本軍は上海の出入りを封鎖すると同時に、上海港に戦艦扶桑を進入させた。

 扶桑は3連装4基12門の36cm砲の全てを上海の市街地に向けた。この光景を見ていた人間達は息を呑む。


「撃て!!」


 多くの人間に注目される中、扶桑は暴徒達や脱走兵がいる区画に向けて容赦なく主砲の36cm砲を発砲した。

 発射された主砲弾は、ほぼ狙い通りに暴徒達の居座る区画に直撃し、そこにいた人間達を文字通り消滅させた。

 航空機の時代であるとは言え、戦艦が未だに軍事力の象徴であることには変わりは無く、その圧倒的なまでの

火力が自分達に向けられていることを知った人間達は、瞬く間に戦意を喪失した。暴徒達は纏まっていたら砲撃

されると思い、次々に逃げ出していった。実質的に暴動が鎮圧された瞬間だった。

 そんな光景を、遥か彼方から見守る人間達が居た。


「戦艦扶桑。日本の古い異名を持つ戦舟が、中華の新たな支配者を示すことになるとは……因果じゃな」


 かつて日本や欧米列強に留学したことのある識者達は、高台にある高級ホテルから戦いの様子を見て呟いた。


「美国の兵器は日本軍に全く歯が立たなかった。全く口ほどにもない。所詮は成り上がりの新参者だったか」

「欧米はこの大津波で壊滅。これからは……忌々しいが日本の時代となるだろう」

「奴らは欧米列強に伍する技術力、経済力、軍事力を僅か70年で手に入れた。さらに運も兼ね備えている」

「その恵まれた力を取り込んでいくしかないの。幸い、我々はそうして版図を拡大してきた」

「日本人に取り入り、その力を取り込んでいけば、再び世界に冠たる偉大な中華帝国が復活する。

 例え帝国復活が難しくとも、日本人の新秩序の下で我が民族を世界中に散らすことが出来れば、世界に

 跨るネットワークを構築できる」

「100年は掛かりますな」

「たった100年だ。100年我慢すれば帝国が復活するのなら、安い取引だろう」

「今後は排日運動を手控え、奴らを笑顔で迎える必要がありますな。そしてゆっくりと彼らの懐に入り込む」

「さて問題は米軍じゃが、どうする?」

「いずれは止まるだろう。補給を絶たれた軍隊など長持ちはせん」

「暴徒は米国人を殺しすぎた。米軍も徹底的に報復するのでは?」

「狂犬のように暴れたとしても、歴代王朝での間引きに比べれば大したことはないだろう」


 そして彼らは食事を再開した。眼下で行われる虐殺には興味がないと言わんばかりに。

 彼らの言うとおり、米国軍将兵は裏切った挙句に居留地にいた自国民を虐殺して回った中国人を許すことなく

徹底的な報復が行われていった。

 なまじ米軍が十分な戦力を保持していたために、米軍の報復は苛烈を極めた。特に身内や知り合いを殺された

将兵は執拗なまでに暴徒や脱走兵を処刑していった。中国人達が次々に処刑されていくあまりに惨たらしい光景は

写真に収められ、後々まで『鬼畜米兵』というレッテルの根拠にされていくことになる。

 そして上海で治安が回復されたことが確認された後、在中米軍は日本軍に降伏し武装解除を行った。

 満州と上海での敗北によって、米国は大陸に築きつつあった権益と威信を完全に失うことになる。












 あとがき

 提督たちの憂鬱第26話をお送りしました。

 拙作にも関わらず最後まで読んでくださりありがとうございました。

 これで中国戦線はあらかた決着が付きました。中華民国は軍事力の過半を失い、身動きが取れないでしょう。

 尤も煮ても焼いても喰えない連中もいるので、日本の苦労は絶えないでしょうが……

 それにしても『提督たちの憂鬱』がタイトルなのに活躍しているのが陸軍軍人ばかりのような気がします(笑)。

 次回は世界情勢と津波の被害、軍備の状況などのインターバル的な話になる予定です。

 主人公こと嶋田さんのターンです。まぁ華々しい活躍なんて無いんですけど(爆)。

 それでは提督たちの憂鬱第27話でまたお会いしましょう。