提督たちの憂鬱外伝 戦後編9



 昭和20年。史実を知る人間にとって『終戦』の年として知られるこの年は日本人にとって比較的平穏なうちに幕を開けた。
 少なくともこの世界では日本本土を脅かす敵はいない。天候の悪化による凶作で食糧事情はやや悪化したものの、飢えが蔓延する事態はなかった。
 食糧の流通には統制が敷かれる等、多少の不自由はあったものの、世界各地で蔓延する飢えと疫病のことを思えば大多数の人間は多少の不自由には我慢した。

「まぁ天候も来年から少しは回復するし、もう少しの我慢さ」

 勝ったことで心理的余裕があった日本人たちはそれなりに楽観的だった。
 無論、夢幻会派を中心とした政府が必死に動いて必要な食糧を確保し続け、適切な配給を行っていること、度重なる天災に迅速に対応し続けていることも、日本人を安堵させるのに役立っている。
 ただし嶋田という海軍軍人が首班を務める政権が活躍すればするほど、非常時においては軍人か軍人経験者が頼りになるという印象が国民に植え付けられることになるので夢幻会にとっては痛しかゆしだった。かといってわざと失敗することもできず、文民統制を理想と考えていた嶋田達はため息をつくばかりだ。
 だが天はそんな苦労人達を労わるかのようにご褒美として特大のお年玉を、嶋田達に授けた。いや、正確に言えば投げつけた。

(今年こそ、良い年であってほしいと思っていた……ああ、確かに謎は解き明かしたいと思っていたよ。早期に分かるのも好ましいことだ。しかしよりにもよって今日とはね……元旦くらい、心穏やかに過ごさせろよ)

 首相公邸の和室で、黒の袴姿の嶋田は複雑な感情を押し殺すように佇んでいた。 
 ちなみに部屋には近衛公、辻蔵相、山本海相、古賀軍令部総長、田中情報局長、杉山参謀総長、永田陸相という層々たる面々が座卓を囲っている。

「全く、連中はよほど日本を滅ぼしたかったのでしょうね……忌々しい居直り強盗どもが」

 その面々を前にして、嶋田は忌々しそうに吐き捨てるが、誰もそれを咎めない。
 特に衝号作戦の遂行に関わった面々は心の中で『支那、許すべからず』と決意していた。彼らの中では中華は共存不可能な、不倶戴天の敵でしかなくなっていた。

「第二次満州事変の真相を公表し、漢人の国際的影響力を一掃する……宜しいかな?」

 近衛の言葉に反対意見はない。
 今回のような事態を引き起こさないため、大陸勢力が今後最低100年は浮かび上がれないように、彼らは徹底的にたたくつもりだ。

「幸いにも上海虐殺のおかげで反中感情も強い。うまくいくでしょう」

 そう言いつつ、嶋田は内心で苦笑していた。何せ上海大虐殺のような惨劇を中華民国軍の一部が起こした理由の一つに『衝号作戦によって米東部が壊滅した』という事実があったからだ。頼みの綱であった大国・アメリカ合衆国が未曾有の大災害によって碌に動けなくなったという現実が元々高くなかった彼らの士気をへし折った。

(あの虐殺も、我々が引き起こしたと言えるか。まぁ良い。直接の下手人は彼らなのだ。徹底的に利用させてもらう)

 嶋田は軽く冷笑を浮かべた後、念を押す。

「ただ、福建、華南連邦出身者まで累が及ぶ事態は避けなければならないでしょう」
「情報局と外務省の出番でしょう。特に外務省には動いてもらわないと。ただでさえ、無駄飯ぐらいと言われているのですから」

 役にも立たない外務省の予算を削減すべしとの声は内外で根強かった。辻はそんな声を遮って、外務省の活動が滞ることがないように手を打っていた。
 しかしそれゆえに、外務省に活躍してもらわないと困るというのも辻の本音だった。これ以上失態が続けば、辻とはいえ庇うのが難しくなる。

「ついでに支那を徹底的にスケープゴートにすることで、白人たちの不満を逸らさなければなりません。あまり不満を貯めすぎると、大火事の原因になりますし」

 今の白人社会には日本に対する負の感情が溜まっている。
 辻は幾ら叩いても問題ないサンドバッグ(漢人)を放り出し、白人たちの鬱憤をぶつけさせるつもりだった。
 特に日本人に頭を下げざるを得ない北米西岸諸国のガス抜きが出来るのは、日本にとっては好ましかった。ガス抜きとしてサンドバッグにされる無関係の漢人からすれば「ふざけるな!」と叫びたいだろうが……同族の不始末ということで纏めて不幸になってもらうのが辻の考えだった。

「まぁ偉大な歴史を持つ漢民族なら、この程度の試練、乗り越えて当然でしょう。精々、ご自慢の中華五千年の歴史の意地を見せてもらいましょう」

 楽しそうな辻に対し、嶋田は軽くため息をつきながら言う。

「狙いはそれだけではないでしょう?」
「ええ。密入国者の引き渡しに関する交渉ついても、北京政府に対して有利に立てます。彼らはこちらの主張をほぼ丸呑みしなくてはならなくなる」

 これには近衛も頷く。

「密入国を防ぐには、密入国者の出身国が積極的に動くのが一番効率が良い。今後、密入国者は増えることはあっても減ることはない」
「件の環境破壊、ですか」
「華北では治安の悪化、天候不順で耕作放棄地が増えたおかげで、使える農地を酷使している。更にその使える農地を巡った争いも激化の一途だ。耕作放棄地の増大と併せて、遠からずあの地域の農業は崩壊するだろう。そうなれば飢えた人間が溢れかえることになる」
「農業の崩壊、これが更に難民を増やす、と? 東遼寧防衛に責任がある陸軍の立場からすると悪夢だな」

 杉山は思わずため息をついた。杉山を宥めるように永田が口を開く。

「まぁ人手が足りない分は件のユダヤ人傭兵部隊で補えます。人件費が安くて済むのが救いでしょう……」

 嶋田達は史実イスラエル軍の奮闘ぶりから、ユダヤ人傭兵は韓国軍よりは遥かに役に立つだろうと判断していた。
 かと言って彼らにイスラエルを建国するつもりは更々なかった。選民思想や被害者意識の強さを考慮すると周辺国との軋轢を生む可能性が高かった。
 またユダヤ人の優秀さを知る故に、あまりユダヤ人を重宝するとユダヤ人によって内から浸食されることもあると考えていた。ユダヤ人は少数なら薬だが多用すれば猛毒になりうる……それが夢幻会の認識だった。

「しかし満州に流れ込む難民が増えすぎると東遼寧を除いた満州一帯が不安定になる可能性が高くなる。『東北軍閥』に命じて、中国本土から満州への人の移動を規制することも考えなければならん」
「それは事実上の満州独立では?」

 山本が懸念を示すが、杉山は安心させるように言う。

「表向きだけでも独立させず、一地方政府にとどめて置けば北京政府は黙るだろう。それに張煥相をはじめとした東北軍閥の主要構成員たちを押しとどめているのが誰かということが判っていれば、文句はつけないだろう。東北の人間も我々の意向には逆らえん」
「表向きはそうでしょう。ですが満州の自称・反張学良、親日派を再編して作った東北軍閥がどこまで信頼できるか……」

 嶋田のこの台詞に、近衛と辻が苦笑する。
 北満州掃討戦の後、日本の代理人として使える組織を糾合して作られたのが『東北軍閥』であった。この勢力は北京政府を裏切った者達から構成されている。
 当然、彼らのバックアップをしているのは陸軍であるので、嶋田の意見に反発するべきなのだが……杉山は即座に言い返さなかった。

「陸軍としては海軍の見解に反論するところだろうが、説得力のある反論が難しいな」

 杉山が苦い顔をしてため息をつく。

「教官を派遣して訓練もさせているが、教官たちの報告を聞く限り、本当に使える部隊は一部に限られる。使える連中は先の大戦で悉く戦死したからな」

 満州決戦で戦った中華民国軍部隊には上海にいた部隊とは違って精鋭が含まれていた。その粘り強さを考慮すれば彼らは弱兵と評せるようなものではなかった。
 だが制空権を日本が握ったため、その精鋭部隊は米軍諸共粉砕され、多大な戦死者を出していた。

(仮にその精兵がいたとしても、日本の下請けで満州の治安維持をするだけの軍では士気も上がらないだろうが)

 杉山はそんなことを思いながら、視線を永田に向ける。永田は杉山からバトンタッチされたことを察して陸軍の意見を述べる。

「何はともあれ、東北軍閥は飴と鞭で御していきます。忍び込ませた間諜が絶えず情報を収集しているので怪しげな動きをすれば、すぐに対処できます」

 日本政府だけでなく日本陸軍でさえ、自分たちの子飼いであるはずの東北軍閥をあまり信頼していなかった。
 それにも関わらず、少なくない金と物資をつぎ込んで彼らをテコ入れしているのは、満州が完全な無法地帯になるのを避けるためだった。

「まぁ東北軍閥は、韓国政府と同様に満州の治安維持さえできれば良い。多少、費用対効果が悪いが関東軍が直接満州全土に展開するよりは安上がりというもの。東北軍閥の無茶な統治に泣きを見る現地人もいるかもしれないが……そこまで我々が手を回す必要はない」

 気を取り直した近衛の意見に反対意見はない。

「ですが、ああいった無法な行為を嬉々とすることが、余計に日本資本を忌避させ、満州を衰退させていることに気付いていないのでしょうね……」

 辻の言う通り、満州は米資本の消滅と、日本資本が次々に投資を引き上げたことで一気に寂れていた。米資本が作った工場もインフラも維持できず、無価値なガラクタになり、経済の停滞によって失業者も増加の一方だった。北満州では異常気象の影響で離農者も増加しており、それが更に経済を悪化させていた。

「自分たちの繁栄が借り物でしかなかったことに気付いて反省し、行動を改めてくれればいいが……」
「わかっているから、戦前にあれだけの仕打ちをした日本へ資本投下を働きかけているのでしょう。尤も悔い改めるようなことはしないでしょう。我々の力で再び富を手に入れれば調子に乗って同じことを繰り返しますよ」
「やれやれ」

 杉山と辻の会話を聞いていた嶋田は嘆かわしいと首を横に振った後、確認するように辻に尋ねる。

「では満州への資本投下は?」
「最低限の資源採掘と鉄道運行に支障がなければ控える方針です。北満州掃討で面倒な連中は軒並み潰してますし、放置でよいでしょう」
「資本は守りやすい東遼寧に集中させれば良いだろう。幸い、あそこは食糧生産に適した土地だ。現地住民の問題を解決できればそれなりに見返りは期待できる」
「予算については問題ないです。万が一に備え、軍需相にも手を回しておきます」

 辻と杉山の言葉に、ほかの面々も頷く。これを見た嶋田は全員の同意が得られたと判断した。

「では当初の計画通り、ものごとを進めましょう」

 かくして1945年1月1日。大日本帝国首脳部は新年早々、休日返上で動き出すことが決定された。
 だが近衛たち6人が慌ただしく出ていった後、最後に残っていた辻は嶋田と共に静かにお茶を飲んでいた。
 そして飲み終わった辻は少し困った顔で切り出す。

「思ったよりも欧州枢軸はしぶとい。片やイギリスの弱体化は目を覆うばかり。欧州枢軸が本格的に立ち直ると些か面白くないことになりそうです」
「イギリス、いや円卓からの伝言ですか?」
「ええ。ですが今より支援を手厚くするとなると問題が多い。特に海軍では反対意見が強いのでは?」
「仰る通り。特に実戦部隊にはその傾向が強い。将校さえ、理性の面では理解していても、感情面ではいまだに収まりがつかない者が多い」

 嶋田は憂鬱そうな顔でため息をつくが、すぐに話を再開する。

「イギリスではジェット機開発さえ滞っている有様。疾風が出れば慌ててミーティアのような機体を出してくるでしょうが、そのころにはドイツもMe262クラス、いや下手をすればそれ以上のものを配備してくる。イギリスにとって厳しくなるでしょう。何しろ相手は独仏伊の連合軍。物量での劣勢は明らかです」
「枢軸を牽制するために、イギリス以外の友好国への支援が急務でしょう。同時に北欧諸国などを経由した対英武器輸出も視野に入れないといけませんね」
「フィンランド向けに一式軽戦車のライセンス生産を認めることも考えないといけないかも知れませんね。疾風公開と同時に超烈風をスタッフ付きで送ることも考えないと」
「スウェーデンも含めるべきでしょう。彼らの技術力は決して無視できません」

 日本はフィンランドやスウェーデンに対して中古品のバーゲンセールとばかりに安値で飛燕を輸出していた。
 爆撃機まで輸出すると周辺国を刺激するということで自重していたが、スウェーデンは戦闘爆撃機と言えるサーブJ9A−2を開発して、独自の技術力の高さを示していた。
 国際防疫機関、ボフォース社の存在も考えると、スウェーデンと繋がりを深めることは大きな利益になるのは明らかだった。

「出来れば欧州枢軸の他の国、あるいは企業との接触も進めるべきでしょう」
「ドイツ以外の? すると三菱以外に接触させると?」

 日独企業は非公式にトルコの兵器開発に関わる形でひそかに交流を行っている。
 それは表向き、両者が堂々と接触できないための措置でもあった。そしてこの日独接触で現場を任されているのが三菱財閥だった。
 片やイギリス企業と手を組んでいるのは倉崎重工だった。倉崎の若社長は社内の不満を抑えつつ、イギリス人ともタフな交渉をこなしており、彼が単なる二代目のボンボンではないことを内外に示している。

「ええ。伝手は多い方がよいかと」

 辻は硬軟あわせた対枢軸政策を支持していた。
 しかしそれだけが辻の狙いではないことを嶋田は見抜いていた。

「……イギリス人への牽制ですか」
「ええ。彼らご自慢の情報機関が勝手に情報を拾ってくれます。日英の秘密交渉を有利に進めるのに役立つでしょう。成果が出れば国内の不満分子も黙らせられます」

 イギリスから相応の利益を引き出すことは、反英派の説得にも使える。イギリスが交渉するに足る相手であれば、イギリスとの対話に反対する動きを封じられるのだ。

「……確かに防疫線の維持、それに伴うカナダ支援でこちらの負担も少なくない。多少は旨みがないと拙い」
「将来的にはカナダとの協力した兵器開発を進めていこうと思っています。カナダの軍需産業に食い込みつつ、カナダをテコ入れできれば我が国の負担も減ります」
「ついでにカナダと協力してCF−105相当の戦闘機を開発できればイギリス本国に売り込める」
「カナダを間に挟むことで我が国への嫉妬や反感も多少は減るでしょう」

 嶋田は辻の意見に同意して頷いた。だがすぐに苦笑する。

「しかし日英関係の仲介人が日欧関係構築を推し進めている人物でもあるとは……イギリスも頭が痛いでしょうね」
「我々が戦後問題でいろいろと頭が痛い思いをしているのは、イギリス人にも責任があるのです。その程度の痛みは当然です。まぁ疾風を見たら彼らの頭痛は更に酷くなるでしょう。何しろ戦闘機開発計画は根底からひっくり返るのですから」
「ですがドイツ以外で接触するとなれば」
「イタリア」
「相変わらず、何でもお見通しですか……わざわざ残って雑談をしたのは、これが狙い、と?」
「ええ。本当は近衛さん達も交えて話をした方がよいのでしょうが、まずは嶋田さんの意思も確認しておこうと思いまして」

 それは辻なりの気配りだった。

「……地中海では多くの同僚が戦死しました。犠牲者は対米戦争以上でしょう。あの作戦を発動させる要因の一つを作った国でもあります。ですが、かといって彼らを露骨に敵視しませんよ」

 裏切り者『イギリス』とも手を結んだのだ。嶋田としては国益となるなら昨日の敵と話をすることを拒否するつもりはなかった。
 まして自分たちが生み出した『絶望』と『怨嗟』が溢れかえる世界で日本が生き抜くために必要とあれば、どのような感情もねじ伏せ仕事に当たるだけだった。

「海軍の人間も、正々堂々戦った雄敵を露骨に敵視する人間はいないでしょう。多少こちらの負担は増えますが、大丈夫です」
「それはよかった。それでは頼みます。正式な話は次の会合で」
「わかりました」

 ただし後にイタリアで日伊友好と称してイタリアご自慢の痛機を見せつけられた嶋田は、この日の決断を少しばかり後悔することになる。




 西暦1945年。大西洋大津波とアメリカ風邪という最悪の大惨事から2年近くが経ったが、北アメリカの混乱は終息していなかった。
 このため日独英の三ヶ国を中核とした列強諸国連合軍は『滅菌作戦』として、旧アメリカ合衆国の人口密集地帯への無差別爆撃を続け、その多くを焼き払いつつあった。
 爆撃の指揮を執っていた日本海軍第2航空艦隊司令長官・福留繁中将は、爆撃の進捗状況の報告と今後の相談のためカリフォルニア共和国首都・サクラメントに司令部を置く北米総軍総司令官の今村均陸軍大将の下を訪れた。

「五大湖周辺及び旧東部沿岸の都市の『滅菌』は完了しました。今後の滅菌作戦の目標は内陸の諸都市に移行する予定です」

 旧米東部の主要都市は日英独による無差別爆撃でその多くがすでに灰燼と帰していた。
 現地ではまともな消火活動さえできないため、大量の焼夷弾を投下すれば容易に焼き払うことができた。このため滅菌は思ったよりも順調に進んだのだ。

「ふむ……」

 机に置かれた作戦図を見ながら、今村は考え込む。

「……英独も本格的に空軍を展開させ始めている。今後は目標について英独と話し合う必要がいるか」
「それでは」
「ええ。我が国が単独で大規模な爆撃をする必要はなくなると思って良い」

 福留はほっとした顔をした。
 これを見た今村はその心中を察した。

「やはり、搭乗員の負担は大きかった、と?」
「ええ。いくら旧敵国とはいえ、疫病と飢えに苦しむ銃後の民を焼き払い、時にはその背に銃撃を加える行為は彼らの精神を蝕むものでしたから」

 人類を守るためという名目の下、行われた滅菌作戦では、あらゆる物が抹殺対象だった。
 女子供でさえキャリアーとして危険視され、徹底的に殲滅することを現地部隊は大本営から命じられた。このため現地部隊は命からがら逃げ惑う子供さえ撃ち殺さなければならなかった。搭乗員たちは『祖国と世界を守るため』と己に言い聞かせて任務に当たったが、それで受ける心理的ストレスは相当の物だった。
 福留は史実のような汚名を着たくないという思いも強かったため、兵士たちの声に耳を傾け、柔軟な対応を取ることが多かった。このため、この手の問題に即座に対応すべく、上層部に対して『必要な措置を取るべきである』と強く上申した。
 当然、夢幻会派が中核となす軍部上層部は、この問題を重要視し、直ちにカウンセラーを派遣したり、頻繁に搭乗員を交代させるなどあらゆる手を尽くしていた。だが彼らのストレスを完全に取り除くのは至難の業だった。
 それでも兵士たちが受けるストレスを少しでも和らげようと心を砕く姿勢は、前線の兵士たちからの支持を確固たるものとしていた。

「福留中将、あの人はいい人だよ。頻繁に前線に視察にくるし、色々と必要とするものを手配してくれるし」
「俺たちの話を真摯に聞いてくれるからな」
「本土のお偉いさんも、俺たちの苦労を理解してくれているのはありがたいよ」

 そんな防疫線の最前線で体を張っている男たちの声は、今村の耳にも届いていた。

(総研、いやその背後の組織である夢幻会、梅津大将は些か不信に思っているようだが……兵を大事にし、民を守ることに力を入れる点については信用できる、か)

 夢幻会の存在は今村の耳にも入っていた。そして目の前の福留中将が夢幻会派とも言うべき派閥に属していることも掴んでいた。
 もしも夢幻会が陛下を惑わし帝国に害をなす奸臣であるなら政争という選択肢もありえただろうが、今村が独自に集めた情報から判断する限りは特に問題があるとは思えなかった。加えて今村を今の地位に推挙したのも、今村に対して絶大な権限を与えているのも夢幻会だった。

(現地の実情を理解していない人間に介入されないのは、夢幻会のおかげだ。防疫線を安定させるためには彼らと協力していったほうが良いだろう)

 今村は気分を切り替えると、福留に視線を向ける。

「稲田中将も来ている。『防疫線』の現状については彼も交えて話をしよう」
「わかりました」

 北アメリカ防疫線。それは表向き人類文明を守るための『絶対防衛線』とされていた。
 特に日本政府はメキシコへの原爆投下を正当化するため、絶対防衛線の維持がいかに重要であるか、そしてそれが人類の利益になるかを喧伝した。

「後々、『謝罪と賠償を!』と言われないようにしなければならない」

 近衛はそう言ってプロパガンダに力を入れた。
 そして日本の喧伝はうまくいった。メキシコのメヒカリに投下された原子爆弾がもたらした惨禍が世界に明らかになっても日本を批判する声は起きなかった。
 国内でも防疫線維持が列強を名乗る国の崇高な責務であるとされ、多少の負担はやむを得ないとの世論が生まれた。しかしその分、最前線がどうなっているか興味がわくのが人間であった。このため日本の報道関係者は関係諸国の許可を受けて防疫線の最前線に乗り込んだ。だがその多くがあまりの惨状に絶句することになる。

「ひどいな」

 日英、そしてカナダ政府の許可を受けたジャーナリスト・橋本登美三郎はカナダのオンタリオ湖の湖畔周辺に敷かれた防疫線を取材していたが、悲惨な光景に眉をひそめていた。
 彼の部下たちも、あまりの光景に顔を顰めていた。何しろ彼らの目の前の施設にはろくな満足な医療設備もなく、栄養も満足に得られず痩せ衰えた難民が大勢いるのだ。
 衛生環境もよいものではなく、部屋の隅にいくと異臭さえするのだ。デスクワークになれた一部の人間は猶更、露骨に不快そうな顔をしている。

「カナダ政府は何をしているのですか?」

 橋本の問いに対して、カナダ軍の担当者は首を横に振る。

「我々も手を尽くしているのですが、現状維持が精いっぱいなのです。本国も自国再建に手一杯で、我々に手を差し伸べる余裕さえないのです」
「……」
「加えて、このキャンプに収容されているのは、主に旧アメリカ人です。そのため余計に支援が後回しになっているのです。また西海岸諸国は東部住人の受け入れを渋っています」

 カナダ政府は被災、あるいは経済的混乱で困窮した自国民の救済で手いっぱいであり、旧アメリカ人の救済には手が回らなかった。
 むしろ彼らからすれば、旧アメリカ人というのは厄介者でしかなかった。現在、カナダ政府は新たな難民の流入阻止を掲げており、五大湖ではカナダへの侵入を試みる難民船に対しては容赦のない攻撃が行われている。

「……地獄、としか言い表せない。いくら旧アメリカ政府が捲いた種とは言え、あんな小さな子供たちに罪はなかったはずだ」

 渋い顔をする橋本の視線の先には力なく壁に寄りかかっている母親と子供の姿があった。
 多くの日本人からすればアメリカ人というのは極東の憲兵であった日本を敵視した上にイギリス人を脅して裏切らせ、中国と組んで日本を袋叩きにしようとした極悪人であり、滅ぶ前に人類文明を危機にさらす真似をした愚か者だった。だがさすがに罪もない小さな子供が苦しんでいるのを見て、彼らの不幸を喜ぶ気にはなれない。

「……」

 橋本は子供たちに近づき、持ってきたドロップを彼らの手に握らせた。
 子供たちはそれを嬉しそうに口に放り込む。久しぶりのお菓子に、彼らの顔が綻ぶ。だが周辺の大人たちの中には複雑そうな顔をする者もいた。
 特にほぼ全滅させられたアジア艦隊の将兵の家族からすれば、日本人は父や夫を奪った仇といっても過言ではない。だが、彼らは勝利者であり、自分たちは庇ってくれる味方もいない惨めな敗者であるという現実が彼らを押し黙らせていた。
 そんな複雑な感情を向けられた日本人たちは、その場を後にした。

「このことを記事にしよう」

 この橋本の意見に何人かが顔を顰める。

「しかし、それではあまり大衆に支持されないのでは?」
「帝国陸海軍の活躍をもっと記事にした方が、部数を稼げます」

 この後、橋本は反論したが、彼らの言うことを完全に否定することもできなかった。何しろ新聞社の間では競争が厳しいのだ。
 このため3班に分かれて彼らは取材を続けることにした。橋本はその先で、やたらを元気に街中を動き回っている日本人男性の姿を目にする。橋本は自分の名前と自身が所属する会社を名乗ってから男の名を尋ねる。

「随分、忙しそうに動き回っておられますね。あなたは?」
「記者さんですか。私はこういうもので」

 男が差し出した名刺を見て、橋本は怪訝そうな顔をした。夢幻会の人間がいたら驚きのあまり目を見開くだろうが、橋本はそうではなかった。

「建設会社の方、ですか?」
「ええ。この業界では日本資本がカナダ復興のためにカナダ市場に参入することが認められるとの噂が流れていましてね。ですから事前に現地を見て回っているのですよ」
「はぁ……しかしそれは噂では?」
「確かに噂です。ですが何もしない訳にはいきません。何しろ商売は速さが勝負です。加えて商売敵は多いですから」

 夢幻会の経済政策で日本は豊かになった。
 しかし国内開発が進むにつれて、後から登場した企業が入り込む隙が狭くなっているのが実情だった。勿論、日本国内で稼げないことはない。だが一発当てるとなると新興企業は外に目を向ける必要があった。それも既存の大企業、財閥が動く前に。

「東南アジア開発では、いくつかの中堅、中小企業が動いています。我々も出遅れるわけにはいかないのですよ」

 そう言うと『田中角栄』と名乗った男は駆け足で街中に消えていった。
 夢幻会によって歴史が歪められても、なお、彼らは自身の才能を活かして己の活躍する場を得ている。それは夢幻会の人間にとっても好ましいことだった。
 何しろ彼らのような人材が活躍するということは、それだけ日本に活気があるということなのだ。
 しかし彼らが活躍するためには、日本と日本の衛星国群を守る必要がある。そう考える男たちは、次の手を打とうとしていた。




 1945年1月6日。この日、元帥海軍大将にして、大日本帝国内閣総理大臣を務める嶋田繁太郎元帥海軍大将はもう一人の元帥海軍大将である伏見宮の邸宅を訪れていた。
 縁側に立って外の光景を眺めている伏見宮の横で嶋田は首を垂れた。それは誰が上位者であるかを物語っていた。

「ふむ、特に遣印艦隊に問題はないようだな」

 一連の報告を聞いた伏見宮は、嶋田に視線を向けることなくそう言った。嶋田は少し怪訝そうな顔をしたが、すぐに話を再開する。

「はい。先日、私が直に見てまいりました。疾風と疾風を運用する機動艦隊は枢軸、そしてイギリスに対して十分な抑止力となるでしょう」

 迫り来る印度洋演習に向けて訓練に励む艦隊の視察ということで嶋田は先日、遣印艦隊の基幹である空母『大鳳』を訪れた。そして嶋田はそのときの光景を克明に覚えていた。

「これで帝国海軍は世界で初めてジェット艦載機を運用した海軍になった訳だ」

 1月5日。訪れた大鳳の艦橋から見える訓練の光景を見て、嶋田は満足そうな顔で頷く。彼の視線の先には4機の四式戦闘機『疾風』があった。それは帝国軍と倉崎が総力を挙げて開発した第一世代ジェット戦闘機にして、世界初の実用艦載ジェット戦闘機であり、対ドイツ、対アメリカ戦においてはジョーカーとなるはずの存在だった。

「はい。倉崎の実験機のデータが役に立ちました」

 遣印艦隊空母部隊を指揮する山口多聞中将が頷きながら言う。その横で遣印艦隊司令長官である栗田中将が苦笑いしていた。

「それにしても計画当初のものとはもはや別物と言ってもよいのでは……」

 史実の知識、そして開発計画の変遷を知る栗田の感想を聞いた嶋田は少し口をつぐんだ後、軽く息を吐いて答える。

「……現場で何が起きたかをもっと知りたければ、倉崎とノースロップ社の連中に聞いてくれ」

 倉崎重工とノースロップ社。両社は共に高い技術力で定評がある会社だった。同時に技術開発で暴走しやすいという欠点もあった。そして彼らの前にある疾風は、両社が手を組んだゆえに発生した暴走の結果生まれたモンスターだった。山口や小沢、塚原、桑原といった航空主兵論者たちさえ、この怪物を見たときには驚きを隠せなかった。それほどまでに疾風は、既存の戦闘機とは一線を画す存在だった。

「まぁ初期に考えられていたものより遥かに優秀な機体が得られたのだ。文句を言うのはまずいだろう」

 嶋田は気分を切り替えるように言うと、山口は同意するように頷いた。
 疾風は元々、FJ−4をベースにして開発を進められていた。しかし将来的な後退翼の限界を知る者達は、後退翼機で あるFJ−4をそのまま再現するかどうかで紛糾した。そして最終的に第一次世界恐慌時に荒稼ぎした金、そして倉崎翁の誠意ある説得もあって、日本に本社を移転したノースロップ社の技術者達の協力によりFJ−4とF−5を混ぜたような機体が完成したのだ。
 全体的に寸胴気味だった胴体は、機首から両側へと移動した給気口や断面積分布法則(エリアルール)の適用でめりはりがあるものに変化し、FJ−4の特徴的だった急な後退翼は、何処かで見たことがある浅い後退角を持つ直線翼へと換装された。  さらに空戦時や離着艦時には、備えられた自動安定装置が機体の制御を機械的に補助する。また吸気口が存在した機首は二門の新型機関砲が収まってなお、将来的な電探装備へも対応できる拡張性が残されている。
 まぁ短く言えば、強力な戦闘能力を擁しながら拡張する余裕を残した優秀な機体だった。

「しかし、今は亡きアメリカ合衆国の技術と日本帝国の技術を融合させた機体が、米海軍を壊滅させた我々の切り札となるか。旧米海軍関係者はどう思うことやら」

 嶋田が皮肉な笑みを浮かべる。これを見た栗田は政治の面から懸念を示した。

「しかし回転翼機の開発でも、旧アメリカ合衆国の会社が関わっているとなれば……カリフォルニアの住人達はどう思うでしょうか」

 栗田は旧アメリカ企業が裏切り者と評されるのを懸念していた。この懸念を察した嶋田は少し考えた後、口を開く。

「旧連邦政府の無為無策が、技術流出を招いたとすれば良い。まぁ向こうの経済界からすればかつて日本人に買われた連中が、今では自分達より立場が上となると面白くは無いだろうが」
「なるほど」

 人種差別が激しかった上に、当時のアメリカ人からすれば日本など辺境にあるフロンティア進出のための橋頭堡に過ぎない。世界恐慌時に買収を仕掛けたものの、日本に本社を移す決断をしてくれた会社はごくごく僅かだった。一般的なアメリカ人からすれば、わざわざ黄色い猿の国に本拠を移すのはよほどの物好きか山師でしかなかったのだ。
 だが今や、彼我の立場は逆転していた。敢えて世界の中心であったアメリカから、極東に拠点を移した企業こそが勝ち組となり、アメリカに留まった企業は軒並み負け組みとなった。

「まぁ何はともあれ、かつてノースロップを嘲笑った連中はさぞかし肩身が狭いだろう」

 意地の悪い笑みを浮かべる嶋田に、栗田を含め、周囲の人間は同意する。

(尤もノースロップの社員の中にも、四式戦闘機が対米戦争に使われなかったことにほっとしている連中もいるだろうな)

 世の中、そうそう割り切れるものではないだろうしな……と誰にも聞こえない小声で呟いた後、嶋田は話題を戻す。

「何はともあれ、列強諸国へのお披露目だ。栗田中将、山口中将、頼むぞ」

 そう言って嶋田は大鳳を降りた。
 そして嶋田はこのとき確実な手応えを感じ、自信をもって伏見宮に報告した。だが一連の報告を聞いた伏見宮の機嫌はよいとは言えなかった。

「殿下?」
「力を揃えるのはよい。ナチと遣り合うため、同盟国を安心させるためには相応の力が必要だ。だが不要に武威を示せば、いずれ己に跳ね返ってくることを忘れるな」
「それは……」

 伏見宮は苦い顔をする。

「我々は対米戦争に完勝した。国を守れた。それは喜ばしいことだ。だが、国民の中には戦争とは栄光へ繋がる道だと考える者が増えているだろう」
「……」
「経済が順調に成長している今はよい。だが成長が頭打ちになり、停滞するようなことがあれば戦争を望む声が出るだろう。かつての成功体験に縋るように、な」

 それは伏見宮が最も恐れている事態だった。
 何しろこれまで日本は勝ち続け、その国際的地位を引き上げ、繁栄を掴んできた。
 日清、日露、第一次世界大戦、そして日米戦争。これらの戦争で多くの利益を得て、日本は大きくなった。それは否定できない、あまりに甘味な成功体験だった。

「並の為政者ならその声には抗することはできまい。いや、むしろ内政の失敗をごまかすために戦争を煽るだろう。そうなれば泥沼にはまり亡国の危機に陥ることもありえる」
「……」
「外に目を向ける必要は判る。だが、かつての覇権国家の多くは内側の問題から瓦解していったことを忘れるな」
「我々が内政を疎かにしている、と?」
「……策を弄して相手を蹴落とす、或は交渉を有利に進めるのも手だろう。だがそれはあくまで国の安寧のためだ。それ自体が目的となってはならん。そのことを肝に銘じよ」

 嶋田は押し黙った。
 それを見た伏見宮は厳しい表情を崩した。

「私は別に叱責している訳ではない。警告しているだけだ。人間と言うのはうまく事が進んでいる時が一番危うい、そのことを忘れないでほしいのだ」

 そう言われた嶋田は過去の行いを振り返った。自分たちがどこか無意識のうちに奢っていなかったか、あるいは見落としていなかったかを。
 そして一つの可能性に彼はたどり着いた。

「まさか、核戦争に備えた大和型戦艦の建造計画を潰す様に陰から山本を仕向けたのは……」

 伏見宮は何も言わない。だがそれこそが答えであったかのように嶋田には思えた。
 そして伏見宮の指摘から振り返った。もしも本当にあの狂気の産物ができたとき、あれを本当に使わずに済んだか、を。

(……そういうこと、か。あのときの会合で仰られた『皮肉がきいている』という言葉には、その意味もあったのか)

 戦艦を愛する伏見宮が陰から手を回して葬った大和型戦艦の初期案の代わりに浮上したのは、超モンタナ級といっても良い戦艦だったのだ。
 大和型という特別な戦艦を愛する彼にとってそれほどの皮肉はなかっただろう。
 嶋田は再び首を垂れた。

「肝に銘じます」
「うむ」

 そして嶋田が伏見宮の前から去ろうとする時、伏見宮は誰に言うことなく、ある言葉を口にした。

「兵は国の大事にして死生の地。存亡の道なり。察せざるべからず」
「……これ以上、殿下の手を煩わせるような真似はいたしません。ご安心ください」
「期待している」











 あとがき
提督たちの憂鬱外伝戦後編9をお送りしました。
拙作ですが最後まで読んで下さりありがとうございました。
疾風はようやく再登場しました。嶋田さんの回想シーンでの登場ですが(笑)。
次回、いよいよ第二次満州事変の暴露になる予定です。
印度洋演習はあとどのくらいで開けるだろうか……。
それでは失礼します。





 今回採用させていただいた兵器です。

倉崎/ノースロップ 四式艦上戦闘機<疾風>
乗員 : 1名
全長 : 12,8m
全幅 : 7.26m/7.44m(翼端増槽装着時)
全高 : 4,2m
自重 : 5,152kg
発動機 : 倉崎<誉>軸流圧縮式噴進発動機(推力 : 3,200kg)
最大速度 : 1,100km/h
実用上昇限度 : 14,300m
航続距離 : 2,500km(翼端増槽装着時)
固定兵装 : 20mm回転薬室式機関砲二門
搭載可能兵装重量 : 2,000kg(空対空噴進弾、外装型回転薬室式機関砲、爆弾、増槽等)





サーブJ9A−2戦闘機
全長:8.4m 全高:3m 全幅:11.4m
最高速度:559km 航続距離:1000km 上昇限度:8千m
自重:2890kg 乗員数:1名
エンジン:<金星四四型>空冷エンジン1500馬力
武装:13.2mm機銃×4、爆弾500kg(ロケットランチャー×8)搭載可能