旧福建省省都『福州』。
 破壊と混乱が吹き荒れる中華の大地において、飛ぶ鳥を落とす勢いで成長を続ける福建共和国の首都であるその街は、その国情を反映し活況の最中だった。
 多数の日本企業が進出し、そこで行われる経済活動は多くの富を同地に齎していた。また帝国軍、そして帝国軍の支援を受けて創設 された共和国軍は周辺からの難民、そして無法な軍閥の侵入を断固として阻んでいた。
 これが安心を生み、国内の安定と経済の成長を促している。
 その恩恵を受けている一般市民は、仕事に疲れても明るい顔で、夜の街に繰り出して飲み明かした。

「難民も入ってこないし、軍閥も静か。これも日本軍と共和国軍のおかげだな」
「ああ。上海は酷いらしい。飢えた流民が流れ込んでいて、周辺には貧民街が広がり続けている。噂では300万人にもなるそうだが」
「それはさすがに嘘だろう。まぁ何はともあれ、俺たちがこうしてうまい酒を飲める幸運を祝おう」

 飲み屋で酒を飲みつつ、男達は頷いた。

「日本軍か。それにしてもまさか日本軍があんなに強かったとは思わなかったよ」
「そうだな。正直、日本とアメリカの勝負となったらアメリカが有利になると思っていたが」
「やはり日本の高性能兵器、そしてそれを運用する軍人の質の差が大きかったな」

 満州と上海での会戦、フィリピン沖、ハワイ沖での海戦はどれも日本側の圧倒的な勝利で終った。
 中国大陸で見せた日本陸軍の強さは、多くの人間に大きな衝撃を与えていた。米中連合軍の戦車、対戦車兵器をものともせずに進撃し 米中連合軍を蹴散らしてく九七式戦車、米軍ご自慢の航空隊を赤子の手を捻るかのように叩き潰す隼と飛燕、火山が爆発したかのような勢いで砲弾を 叩きつける重砲群。それは日本=小国というイメージを木っ端微塵にするものだった。
 そしてユトランド沖海戦を上回る規模とも言われる大海戦『ハワイ沖海戦』は結果とその後の影響から日本海海戦の再来とも言われていた。 同時に同海戦での日本海軍連合艦隊の鮮やかな完全勝利は、有色人種を勇気付けていた。

「共和国軍は?」
「日本からの梃入れで、今後更に強化されるそうだ。日本側の意向と内陸からの侵入者を防ぐために陸軍が重視されそうだが」

 福建共和国はその地形ゆえに、陸軍が重視されていた。
 福建省と浙江省という山や密林などに囲まれた守りやすい地形の国ではあるが、少数の部隊であるなら国境を突破するのは容易い。 よって森林・山岳地帯での活動を想定した山岳師団のような部隊が創設されていた。
 中でも最精鋭と名高いのが日本陸軍熱戦教の指導を受けている第一師団『猛虎』であった。師団の紋章として虎が選ばれたこの部隊は 共和国陸軍実働部隊の要の一つとなっている。

「海軍も梃入れして欲しいよ。戦艦、いや巡洋艦が1隻でもあれば見栄えが良いのに」
「無茶を言うなよ」

 福建共和国軍は陸軍と空軍重視であり、海軍はせいぜい駆逐艦を揃えるのが関の山だった。
 今後は軽巡洋艦の導入も考慮されていたのだが、まずは国内の基盤づくりが最優先とされており、日本から軽巡洋艦を導入するのはもう少し後になると思われていた。

「日本は戦艦だけでも12隻、空母も10隻以上も持って、さらに世界最先端の兵器も沢山作っているのに……」
「あの国が別格過ぎるだけだよ。あの国を物差しにして測ったら頭がおかしくなるぞ」
「そうそう。空母をひと月に1隻以上配備できる国だぞ。それに並行して核と富嶽まで作っているんだ」
「それでいて国内ではカラー映画を作っていたって話だ。あの国は常識をどこかに置き忘れている」

 日本側は戦時量産型空母『祥鳳』型を含め、多数の空母を建造していた。アメリカ合衆国が早期に滅亡したことで、活躍できた艦は 少なかったが、それでもアメリカが滅亡するまでに多くの空母が就役していた。43年に入ってからは殆ど月刊で空母が就役しており 諸外国からは『月刊空母(護衛空母含む)』の異名を頂くことになった。
 史実、そしてこの世界の米国の生産能力を知っていた夢幻会の面々からすれば過大評価もいい所だったが、その異名は日本の 強大さを言い表すものとしてあっさり広まってしまった。
 月刊空母と巡洋戦艦(富士型超重巡)を筆頭に多数の船舶を建造。それと並行して世界最高水準の中戦車を含めた強力な陸戦兵器を生産。 それでさらに超重爆や原爆等の画期的な新兵器の開発と生産も進め、尚且つ国民生活が他国ほど酷く圧迫されなかった国……これが日本帝国の評価となった。

「いや、単に戦前に日本が世界からかき集めた富が多かったということだろう。連中はかなり阿漕な方法で富を奪ったという話もある」
「ははは。だとすれば因果応報だな。力を使って有色人種から搾取してきた連中が、有色人種から搾取された上で力で叩きのめされたのだから」

 有色人種というだけで、白人から見下されることが多かった男たちとしては今の情勢は痛快だった。

「何はともあれ日本と最初に組んでよかったな。おかげで今やあの鼻っ面が高い英国人でも、俺達を無碍に扱えない。連中の顔を見ているとこれまでの鬱憤が晴れるよ」

 商人の一人がそう言って大笑いしたが。これまで白人による露骨な差別を受けていた人間にとって、白人達が豹変した様はこれまでの劣等感を一気に消し飛ばす爽快なものだった。

「それに浙江が手に入ったおかげで、食糧も何とか余裕が出来た」
「ああ。余った食料は高値で売れるし、笑いが止まらないよ。そういえば、浙江の不動産はどうなっているんだ?」
「中々よい商売になりそうだよ」

 福建共和国は日本帝国と同盟を組んで、対米、対中戦争を戦った。
 そして日本帝国が事実上、戦争に勝利したことで彼らは勝ち組となった。第二次下関条約で福建共和国は旧浙江省を手に入れ、さらに対米戦争での戦勝国に名を連ねることになった。
 実際のところ、対米戦争では大して活躍していないのだが、それでも福建共和国は事実上の宗主国である日本帝国に忠実に尻尾を振り続けたことで国際的地位を一気に高めることが出来た。
 その結果が商人たちが言うような扱いの改善だった。特にイギリスは、日本の衛星国である福建共和国にもある程度の配慮を要求されていた。そして最終的に福建共和国人は準日本人として扱われることになったのだ。
 男達は目の前に並ぶ福州料理に舌鼓を打ちつつ、話を続けた。

「そういえば、浙江財閥や宋美齢が動いているとの話を聞いたが」
「ふん、日本と福建をバックに返り咲きを狙っているんだろう? 上海は奴らの牙城だったからな」

 大戦後、半ば独立状態になった上海には日本を筆頭にした列強の軍、情報機関、各企業が進出していた。これに加え中国各地の軍閥や有力者、 更には犯罪組織も上海に拠点を置いている。このため商取引や非合法活動は盛んであり、『魔都上海』は戦前と変わらず活況だった。
 だがこの街はかつての大戦で一つ大きなケチがついていたのも事実だった。

「上海ね。難民の流入が絶えないうえに、あんな虐殺事件があったというのに」

 日米戦争の最中に起きた『上海大虐殺』。それは多くの忌まわしき記憶を後世に残す物だった。

「上海大虐殺を忘れないための記念碑を建てる連中もいたな。正直、あの写真を見たときには胸糞悪くなったけど……いまだと連中の自業自得と思えるよ」
「おまけに犠牲者の数も水増ししている。全くあんな連中がいるから、俺達まで同じに見られるんだ。いい加減にしてもらいたいぜ」

 中国側は『上海大虐殺』の中国人の犠牲者(死傷者)は10万人以上と発表していた。
 当然のことだが、戦後になると詳しい調査が行われた。その結果、遺体の数、中華民国軍の脱走兵によって殺された人間、米国人から略奪しようと して返り討ちにされた人間の数を考慮すると、米軍によって殺された者は当時の発表より遥かに少ないことが明らかになっていた。
 中国側はそれでも被害者面をしたが、その前の裏切りによって全く相手にもされない。
 福建共和国人は状況によってはその煽りを受けることもあり、それがますます中華民国、より正確には漢人への怒りを煽る形になっていた。

「あの連中と同一視されたら、折角の戦勝国の立場が台無しだ!」

 彼らはそう言って憚らなかった。海外との貿易を手がける人間の中には、華僑の力を利用しようとする者もいたが、やはり内心では漢人のことを厄介者扱いしていた。
 そしてそのような動きは福建だけではなく、華南連邦でも起こっていた。
 華南連邦は広西省、広東省、江西省、湖南省、貴州省、雲南省、四川省西部を配下に収めつつ、農業に向いた気候から英国の食糧庫としての立場を得ていた。さらに日本からも投資もあり、経済は上向きだった。

「復興に手間取っているイギリスは我々のことを無碍にできまい。そして日本も華南に興味を持っている。我々が発展できる余地はある」

 汪兆銘は執務室で最新の経済情勢を記した報告書を読んで満足げに頷いた。
 表向きはイギリス寄りの態度を示しつつ、日本にも最大限の配慮を行うのが汪兆銘の考えだった。
 しかし日英にパイプを持ちながら、力を蓄えつつある華南連邦政府には華僑(華北出身含む)の接触が後を絶たなかった。貿易にとって有利になる繋がりなら まだよいが、華南連邦の力を借りて中華再興を目指す人間や単に己の利益のために日英とパイプを持つ華南連邦を利用しようとする人間も少なくないのは 汪兆銘にとっても頭の痛い問題だった。

「ただでさえ大陸出身者は冷たい目で見られているのだ。この上で華北に手を出して中華統一を目指しているなどと思われてはならん」

 汪兆銘はそう呟いて窓の外を見る。

(そもそも華南連邦は少数民族が多くいる。彼らを束ねるだけでも膨大な労力がいる。ここでさらに華北を抱える真似ができるか。流民の対応でも頭が痛いというのに。下手をすればインドの二の舞だ)

 福建共和国と同じように、華南連邦にも多くの流民が向った。
 華南連邦は長江などの地の利を生かした対策をして、流民流入を防いでいるが、面倒な問題であることには変わりがない。
 流民の数が減っているならまだ救いがあるのだが、現状は増える一方だった。北京政府の威信失墜による地方軍閥の反乱、そして経済の崩壊と食糧難は社会を破壊するには十分すぎた。
 インドの情勢を知っている汪兆銘は、華南連邦をインドの二の舞にしないように細心の注意を払っていた。

(今は何より国力を養い、国内の基盤を強化するのだ。共産主義者や不穏分子を押さえ、国内を安定させる。
 この世界を無事に乗り切り、未来を勝ち取るにはそれしかない! 負ければ全てが失われるのだ!!)

 汪兆銘の考えは間違っていなかった。
 欧州、アフリカでは負け組みとされた人間達は全てを奪われ、歴史の狭間に消えつつあった。それがアジアでも起きないとは言えない。
 勝ち組とされるアジアの雄『大日本帝国』と、落ち目であるが宗主国である『大英帝国』の間を上手く渡り歩き、力を蓄え次世代に未来を託す……汪兆銘はそう決意した。
 彼は自分と自分の後継者が歩む道が決して平坦ではないと判っていた。だが同時に歩み道があるだけでも恵まれていると理解していた。 何しろこの世界には未来に続く道さえ奪われた者たちは掃いて捨てるほど居るのだから。
 しかし華南連邦の安定を願う彼の思いも空しく、華南連邦の宗主国であるイギリスは再び試練の時を迎えることとなる。


            提督たちの憂鬱外伝 戦後編5




 西暦1944年、大西洋大津波後に起こった世界的な異常気象が継続していた。
 北半球は冷夏に襲われ、農業生産に大きな打撃を受けた。日本は冷害に強い品種の作物を植えていたこと、備蓄に励んでいたこと、そして大西洋諸国と違って漁業が打撃を受けていなかったため食糧難にはならなかった。
 ただし日本は戦前の反省(やりすぎたこと)もあって、友好価格での食糧の輸出も行っていた。そしてその食糧輸出に一役買ったのだが図南丸型冷凍船という船だった。

「まさか、あの船があそこまで役に立つとは」

 辻がそう言うほど、この船は活躍していた。
 この船は史実で捕鯨母船として建造された図南丸を、史実よりも早い30年代前半においてすでに実用化に成功していたブロック工法や電気溶接により建造した大型冷凍船だ。
 史実で起こった凶作などを想定した政府の食糧自給率及び食糧備蓄体制の増大政策も相まって、図南丸型は史実の倍以上の数が建造されていた。
 冷凍庫内の物資をスムーズに荷揚げするためのクレーンやベルトコンベアなどの基本構造はどの船も共通だが、中には漁業と洋上での加工、冷凍などを行う捕鯨船以外にも単純に空いたスペース全てを冷凍倉庫として使う輸送船タイプも存在した。
 そして図南丸型は戦後において自衛用の武器をつけて遠洋に出向き、大量の魚を釣った。だが図南丸とその同型艦が釣った魚は日本人だけが食べた訳ではなかった。
 図南丸型冷凍船は日本以外の国にも大量の海産物を提供することで多くの人間を飢えからを救っていたのだ。当然、その行動と成果は大きく喧伝され、日本のイメージアップにつながることになる。

「日本の船が来たぞ」

 食糧事情が苦しい地域では、そんな情報が広がっただけで歓声が挙がった程だ。
 何はともあれ日本は「力自慢の無神経な国」や「条約破り上等で収奪を繰り返す国」ではないことを全力で宣伝することで、反日気運が高まるのを避けようとした。
 アメリカのごり押しがあったとは言え、かつて孤立した経験がある国としては当然の措置であった。だが周辺地域から現在進行形で収奪中のドイツからすれば当て擦りにしか見えない。

「やってくれる」

 ドイツの宣伝省の官僚たちは渋い顔だった。日本は一言もドイツを名指しで批判していない。
 だが確実にドイツと日本の行動は対比される。そしてこの場合、ドイツがあまりに不利だった。何しろドイツがこれまでやってきた行為はお世辞に言っても褒められるものではない。
 尤もドイツ人からすれば日本人のほうが余程、悪辣で狡猾で、性質が悪かった。

「連中は確かに条約を破っていないさ。だが彼らは条約を破ることなく、先見性と策謀で世界から富を吸い上げたのだ。そして今は恩を高値で売り付け、ソ連には恩を売りつけると同時に黄金を吸い上げている」

 輸出する海産物の提供価格には差があった。友好国には安値で、そして……赤い熊であるソ連には相応の高値で売却されることになった。
 「日本から金塊で魚を買う痩せた赤熊」という風刺絵が新聞に載るのだから、どのような取引が行われていたか分かる。

「多少の差がでるのは仕方ありませんよ」

 やり過ぎと危惧する面々に向けて、辻はしれっとそう言い放った。
 尤もあまり毟るのも拙いと考えたのか、極東での経済協力も進めることを会合の席では提言していた。
 この結果、日本側は沿海州沿岸地域でのサケマスの孵化放流事業やトナカイ及び馬の放牧事業への支援を正式に打ち出すことになった。
 特に北極圏地域で放牧でき、かつ良質な肉と毛皮が得られるトナカイの放牧には力が入れられた。
 赤い熊に対して餌をやり過ぎているのではないかとの声もあったが、会合の席で近衛と辻はそんな意見を一蹴した。

「不本意だが……当面はソ連に立ち続けて貰わないと困る」
「豚は太らせてから食べるものですよ。肉質の悪い豚など食べたくないでしょう?」

 当然、尾崎ルートから日本側からかなりの支援を受けれると聞いたソ連政府は胸をなでおろすことになる。
 クレムリンの会議室ではモロトフが日本から相応の協力を引き出したことを成果として強調した。

「トナカイの牧畜、海産物の加工工場が軌道に乗れば食糧事情が改善するだけでなく、外貨獲得の手段となるでしょう」

 日本はトナカイの品種改良のために北欧諸国から優良種を投入し現地のトナカイと交配させることも計画していた。そのために北欧諸国の間で仲介を取ることも打診していた。
 そして現状で北欧諸国、特にフィンランドが断るとは考えられない。

「しかし我々が日本に輸出している資源を考えれば、まだ足りないと思うが?」

 無謀な戦争を続ける指導者スターリンを排除した八月革命の後、中央に復帰したフルシチョフの意見にモロトフが首を横に振る。
 実際、彼の言うとおり日ソ貿易のレートは日本が有利であり、ぼったくられているといっても間違いではなかった。多大な犠牲を払いつつ、ソ連は日本に資源を貢いでいるといってもよいのだ。

「奴隷なら幾らでもすり潰しても構わん! 兎に角、ひとかけらでも多くの資源を採掘し輸出するのだ!」

 現在、その大号令と共にソビエト各地では過酷な環境の下、中朝から輸入した奴隷を使った資源の採掘が進められた。あまりの過酷さに脱走も後を絶えなかったが、過酷なロシアの 環境と軍、警察の監視を突破して生き残ることはほぼ不可能だった。死体を満載した馬車が、毎日採掘施設から『処理場』と呼ばれる施設に向かっていた。
 食糧や医薬品などの生活物資の不足によって苛立っている市民(特にウラル以西在住)や一般兵士は不満を容赦なく奴隷達にぶつけた。彼らは奴隷を新たな農奴と して扱った。ただこの『農奴』は国の『資産』なので、下手に痛めることは出来ない。故に、より陰惨な行為が横行した。酷い話だが、人間とはそういうものだ。
 あまりの凄惨さに、待遇改善を具申する者もいたが大半の人間はお構いなしだった。

「連中は元中国人と『元アメリカ人』なのだろう? なら問題ないさ。世界の嫌われ者の連中を扱き使っても文句はつけられない」

 史実でドイツ人捕虜や日本人捕虜を強制労働させ、大量死させた国は、この世界でもその恐ろしさを遺憾なく発揮していた。
 そしてソ連で採掘された膨大な資源は、日本に輸出され、引き換えにソ連は工業化に必要な機材を輸入していた。だがその交換比率は日本に非常に有利なものだった。
 ロシアの富が一方的に日本に吸い上げられていると思う人間も少なくない。当然、そんなレートしか引き出せなかった外務省には非難が集中する。故にモロトフは反論しない訳にはいかない。

「……対日関係が好転しているとドイツに思わせるだけでも大きな成果となります」
「そうそう容易にドイツが思い込んでくれると?」

 日独がある意味、対ソ政策では一致しているとフルシチョフは考えていた。
 何しろヒトラーからすればスラブ民族は隷属させるべき存在であった。片やロシア帝室の遺児たちを抱える日本からすればソ連政府は無法者の簒奪者に過ぎない。そして両国にとって共産主義は敵であった。
 過去にドイツは共産主義の脅威を口実の一つにして中立条約を破ってソ連に攻め込み、国土を蹂躙したのだ。ドイツが大人しくなっているのは勢力圏の整理に忙しいために過ぎない。

「ドイツは停戦条約を破って攻め込んでくる」

 それはソ連政府要人の共通認識だった。
 当然、ドイツ側も似たようなことを考えていた。彼らは条約は破られる、あるいは破るものと考える傾向があった。
 故にモロトフもそれを逆手にとるつもりだった。

「ヒトラーもかつて多くの約束や条約を破りました。故に彼は『日本も同じような行動をするのではないか』……そう思うでしょう。加えてドイツの人種政策は日本は相容れず、日独は第一次世界大戦以降の仇敵です」
「なるほど。外相はその目論見が成功すると?」
「成功するのではなく、成功させるのです。尤もこれは私だけでなく皆様の支援と協力も必要不可欠ですが」
「「……」」

 出席者たちは相手の出方を探るように視線を交わすが……反対意見はでなかった。
 このあと、クレムリンの住民たちは昨今の食糧事情に触れた。

「現状で缶詰工場の稼動は?」
「順調です。日本製機材の導入で工場の稼働率も上がっています。それに『処理場』から送られてくる『材料』も豊富ですので」

 『材料』という単語が担当者から出た途端、事情を知る人間は眉を顰めた。
 だがそれ以上のことはしなかった。何しろ食糧事情は逼迫しているのだ。『どのような肉』が材料であれ、人民の胃袋を満たせるなら問題は無かった。何しろ 飢えは革命を誘発する。革命で起きたソ連が、革命でひっくり返るという冗談にしか聞こえない事態が起きかねないのだ。
 そして共産党が潰えた後に、登場するのは新たな革命政府か……或いは帝政の復活だった。帝政を否定することで生まれた共産政権にとって後者『帝政の復活』だけは阻止しなければならない。
 だが現状では別の問題も発生しつつあった。

「しかしこれで我が国は、食糧生産まで日本に頼ることになります」

 ある官僚の意見に出席者たちは苦い顔をした。
 戦前に頓挫した重工業化は、独ソ戦の疲弊によってソ連単独ではまず実行不可能になっていた。加えて現在、ソ連相手に商売してくれる工業国は日本以外に存在しない。 ドイツは敵国だったし、イギリスは自国の再建に手一杯。むしろソ連向けに輸出している物資の一部を、イギリス向けにしてくれないかと頼む始末だった。
 そして戦前では取引相手となりえたアメリカ合衆国は、今や『赤い魔王』と呼ばれる独裁者・スターリンが煽った日米戦争の末に滅亡していた。
 この状況では日本との関係を破綻させるわけにはいかない。ましてソ連は赤い魔王によって国際的地位も信用も失墜させている。ここで日本と事を構えては ドイツの思う壺だった。
 尤も仮に日本の手を借りて工業力を強化したとしても、今度は日本無しではソ連の工業力は維持できなくなる。各種インフラは日本企業や日本製の部品なしでは 維持できないのだ。技術移転については日本も厳しく取り締まっていた。このため産業スパイで細々と盗むしかないのが現状だった。
 この日本での技術面での嫌がらせ(テクニカルハラスメント)に、ソ連も困り果て、そして将来を危惧していた。

「このままでは我が国は日本の経済的植民地になってしまう」

 モスクワの官僚たちの間では、そんな声が挙がった。
 また日本企業の進出で資本主義思想が国内に浸透することに対しての懸念も高まっていた。
 日本企業は進出が許されたとは言え、好き勝手に動かれては堪らないソ連は各地に租界の建設を許可し、そこの中での商売、或いは日本資本の 施設の建設を認めていた(ただしこの制限と引き換えに税制面では多大な優遇が行われていた)。ソ連からすれば資本主義の思想が流入するのを制限するのが 狙いだったのだが……残念ながらその試みは破綻していた。

「日本の租界にいけば、手に入らないものは無い」

 現在はそんな評判によって日本の租界は大賑わいだった。だがその声が「何で搾取されているはずの資本主義国家の国民の方が豊かな生活をしているんだ?」という疑問に変化するのも時間の問題だった。
 当然、ソ連政府はこの危険な兆候を掴んでいた。だがそれでも、日本と縁を切るわけにはいかないのがソ連の悲しい懐事情だった。

「新たに建設中の工業地帯のインフラは全て日本製なのだ。日本との関係を絶てば、これらの維持にすら事欠くぞ」

 実務を司る官僚達はそう言って、日本企業締め出しを主張する意見を封殺し情報統制で乗り切ろうと考えていた。
 しかしたとえ『臭い物に蓋』をしたとしても、日本租界の話は外部に漏れる。どんな権力者でも庶民の口コミだけは止められなかったのだ。共産党も例外ではない。
 苦い顔をする出席者は一様に口を閉ざした。だが軍の代表であるジューコフはいち早く口を開く。

「しかし日本製機械を使わなければ、まともな兵器が作れないのは判っているだろう。先の戦争での、我が国の兵器の体たらくを考慮すると日本との関係を悪化させるのは賛成できん」

 ジューコフの脳裏に浮かんだのは、独ソ戦末期に行われた『バクラチオン』作戦での光景だった。
 この作戦のために集められたソ連軍は数こそ多かったものの、その内実はお寒い限りだった。歩兵には満足な武器どころか、軍服すら与えられなかった。 当然、食糧もだ。少なくない数の歩兵は気休めに与えられたウォッカで死への恐怖を和らげた状態で、スコップや斧を手に突撃を余儀なくされた。配給する ウォッカすら与えられなかった部隊は……麻薬を使って恐怖を麻痺させてドイツ軍に突撃させた。

(『義勇軍』はすり潰しても補充は効くが、正規軍を無駄にすり潰すわけにはいかん)

 この麻薬漬けにされた兵士達(主に奴隷階級や重犯罪者)は戦後に後腐れがないように、まともな装備すら与えられずにドイツ軍に突撃させられ……一兵残らず全滅していた。 ドイツ軍に少なからざる打撃を与えたものの引き換えに残されたのは、痩せ衰えた麻薬中毒者の遺骸の山だった。その光景はあまりにも悲惨だった。
 だが小銃を配備された部隊が活躍できたという訳でもなかった。工作精度の低下によって暴発する銃は後を絶えなかった。ソ連軍内部では「ドイツ人に殺されるより、 自国の兵器によって殺傷された兵士が多いのではないか」と冗談半分で言われていた。
 切り札であった戦車部隊は惨憺たるものだった。エンジンはマトモに動かない。主砲を撃てば暴発し、装甲がすぐに割れるなど全く戦力にならない車両が ごまんとあった。主砲さえ撃てれば、トーチカ程度には使えるのだが、それすら出来ないのだ。もはや的であった。
 ロシア帝国陸軍と同様にソ連赤軍ご自慢の砲兵も満足に補給を受けておらず、途中で弾切れを起して戦場のオブジェとなった砲も少なくなかった。
 地上部隊がこの有様である以上、ソ連軍は空軍を頼りにしなければならなかったのだが……その空軍も似たりよったりだった。まともに飛ぶどころか離陸さえ できない航空機が多かった。ソ連空軍は旧式の複葉機すら全てつぎ込んで、何とか制空権を完全に奪われないようにするだけで手一杯だった。
 搭乗員不足から女性パイロットも多数参戦していたが、彼女達の乗機は旧式機であったため、ドイツ軍パイロットにスコアを献上するだけに終っていた。史実 では史上2人しかいない女性エースの内の一人であったリディア・リトヴァクは戦死こそ免れたものの、生き延びるので手一杯であり、エースにはなれなかった。

「先の戦争で、赤軍は多数の兵士を失っている。この補充は容易ではない。日本との協定で引き上げた極東軍を前線に当てているが状況は楽観できない」

 日本の工作で骨抜きにされた極東軍では、数合わせでしかなかった。使い物になるようにするには時間が掛かる。

「前政権の失政のツケを赤軍将兵の血で支払った。それでもまだ足りないというのか? まだ将兵に無駄に血を流せというのか?」

 軍と良好な関係を持つフルシチョフがジューコフを支援する。
 日本の工作によって散々に煮え湯(金銭的意味で)を飲まされて来た人間達は尚も危惧した。しかし前政権のツケを一身に背負いながらも体を張って国を 何とか守った軍部の意見を無碍には出来ない。
 さらに軍の苦境を知るベリヤはこれを援護する。

「祖国再建のためには産業の再建が必要だ。過酷な資源採掘には……『元アメリカ人』と『出稼ぎ労働者』、『囚人』を使えても、労働力は不足している。 兵士を増やすことが難しい以上は、兵器の質を上げる必要がある」

 ここでベリヤが『元アメリカ人』、『出稼ぎ労働者』と言ったのはそれぞれ『元アメリカ人の有色人種(他称含む)』、『朝鮮人(ソ連在住の朝鮮系含む)』を 示す。当然だが囚人も、単に罪を犯した人間だけではない。ドイツに内通したという罪状で、大々的に強制連行された少数民族も多いに含まれている。

「ですが……」
「優先順位を見誤ってはならん。ドイツに敗北すれば……次に待ち受けるのはロシア民族の総奴隷化だ。連中が占領地で何をしているか、君も承知しているだろう?」

 反論しようとした男は沈黙した。
 何しろドイツ占領地ではロシア人は最下級の扱いであり、これまでロシア人によって抑圧されてきた民族によって厳しい弾圧を受けていたのだ。ドイツ占領地 から逃げ出してくる人間は後を絶たない。そして着の身着のままで逃げてきたロシア人のやせ細った様相を見れば、どんな人間でもロシア人がどのような扱いを 受けているか理解できる。

「「「………」」」

 彼らの脳裏にはソ連の滅亡、そして滅亡したかつての祖国の大地で、ドイツ人によって奴隷にされたロシア人の姿があった。そしてそれはあまりにおぞましい光景であった。

「我々はドイツに敗北することだけは絶対に許されん。ドイツに敗北すれば……ロシアの民は地上から抹殺される」
「……」
「当面の方針は不変だ。ひとかけらでも多くの資源を輸出し、引き換えに工業化に必要な機材を輸入する。だが技術移転についても更なる交渉を行う。国内では市民の不満の ガス抜きも進める。ロシア正教との対立を緩和することが出来れば、少しは面倒が減る。ただし帝政復活を図る動きには注意する……これでどうだろうか?」
「……はい」

 何はともあれ、このあともスターリン時代とは打って変わって活発な意見交換が行われた後、会議はお開きとなった。
 だが出席者がそれぞれ次の仕事に向かう中、ベリヤとモロトフはクレムリンの別室に向かった。
 ベリヤの部下達によって『綺麗』にされた簡素な部屋で二人はそれぞれソファーに座り、顔を突き合わせると……ベリヤから重い口を開いた。

「今のところ、軍部は押さえられるが……これからも軍部を押さえられるか油断は出来ん。前政権のツケは大きい」

 これにモロトフは顔を顰める。

「前書記長の負の遺産だな」
「ああ。軍内部では共産党への不満が燻っている。私も寝首をかかれないように注意しなければならない。何しろ私を殺したがっている連中は星の数ほどいる」

 軍人達からすれば、重工業化を頓挫させ、さらに赤軍を大粛清によって弱体化させたスターリンとその支持基盤である共産党は忌まわしい存在でしかない。 まして今の赤軍にはかつてシベリア送りにされていた優秀な将校が多数居るのだ。彼らが共産党への忠誠など持っている訳が無い。
 さらに言えば、ベリヤは赤軍大粛清を行った当事者の一人。赤軍将校からすればスターリンのように排除したい人物の一人だった。このためベリヤは万が一襲われた 場合に備えて護身術も必要になるのではないかと思い、その手の修行も影でするようにしていた。尤も何故かその護身術の中に『セ○シーコマンド』なる武術が存在して いたのだが……幸か不幸か、ベリヤ以外、誰もそのことを知らなかった。

「貴方が失脚するようなことがあれば、私もすぐに後を追う羽目になりますよ……外交の責任者として」

 赤い魔王スターリンの陰謀の暴露後、ソ連の外交は大打撃を受けた。周辺国からは常に白い目で見られ、かつては小国と侮っていたフィンランドなどの北欧諸国にも常に気を配らなければならない立場に陥った。

「何故、あんな小国共に……」

 ソ連の外交官達は屈辱のあまり顔を黒くした程だ。しかし今やソ連は世界中から敵視、あるいは不信の目で見られていた。その視線を無視して強面で交渉することを 可能にする軍事力はソ連には存在しなかった。ソ連自慢の陸軍は独ソ戦でボロボロ。空軍も似たようなものだった。そして海軍については……貧弱なことで知られる ドイツ海軍よりも遥かに悲惨な状態だ。ソ連海軍の某提督がドイツ海軍の陣容ですら「羨ましい」と呟くほどなのだから、ソ連海軍の凋落振りが判る。
 これまでの居直り強盗のような行いの数々も相成ってソ連の立場は失墜していた。当然、スターリンに近かったモロトフへの批判は強かった。
 ソ連側にとって不利とは言え、日本との通商ルートを構築できなければモロトフも責任を追及されて失脚していただろう。尤も日本との通商ルート構築できた 今では、ソ連の産業基盤を日本に乗っ取らせる原因を作ったと言われて失脚しかねない状況でもあった。
 軍部も国内の不満のガス抜きのために、モロトフをスケープゴートにする位しかねない。モロトフが生き延びるためには、ベリヤと組むしかなかった。
 軍部に対抗するために外務と内務の担当者が手を組んだ、との噂は流れていたが実際のところは双方共に保身のため呉越同舟であった。

「……フルシチョフのように、赤軍将校と仲の良い人間が共産党内部では台頭しつつある。連中はいずれ我々を追い落としにかかるだろう」
「むぅ……」

 ここで二人は沈黙する。何しろ自分達の命が掛かっているのだから必死だ。

「この際、綱紀粛正という口実で軍の発言力を抑止するのも手だろう」
「綱紀粛正と言うと?」
「大祖国戦争が外国でなんと言われているか、知っているでしょうに」
「……なるほど、数々の蛮行で失墜したソ連赤軍のイメージ向上を図る、と」
「スターリン時代とは違う……それをアピール出来る」
「しかし綱紀粛正と言っても、一歩間違えれば粛清と言われかねないのでは?」
「絶好の口実がありますよ」

 そう言ってベリヤが取り出したのは、赤軍内部で発生した性犯罪についての報告書だった。

「祖国のために立ち上がった女性達を食い物にした連中を叩きのめす……国民だけでなく、諸外国の婦人達へのアピールにもなる。そしてこれなら ジューコフも反対できない。仮に反対すれば……性犯罪を容認するのか、か弱い女性を見捨てるのか、と攻撃することも出来る」
「なるほど。そしてこの手の取り締まりには多少の冤罪は付き物、と」
「ええ。まして逮捕されなかったとしても、嫌疑が掛かったとなれば……さぞや居づらくなるでしょうな」

 ニヤリと黒い笑みを浮かべる二人。

「尤も私個人としては、祖国のために立ってくれた気高き女性たちに狼藉を働いた連中など、一人残らず銃殺刑にしたいですが」
「ははは……」

 過去のベリヤの所業を知る人間としては、ブラックジョークにしか聞こえない台詞だった。

「し、しかし最近変わりましたな。女性への扱いが」

 NKVDの長であるベリヤが、女性に対して紳士になったことは有名だった。そして性犯罪に対して厳しくなったことも。
 何しろNKVDの人間で美少女(広報誌に出せるほどの容姿)に狼藉を働いた者など「反動分子」と直に罵った挙句に、自分の手で処刑するほどなのだ。 この上司の変貌にあわせるようにNKVDは性犯罪には厳しくなった。国内からは嫌われた組織であったが、女性から一定の評価がされるのはこのためとも言われている。
 モロトフの言葉に、ベリヤは厳かに頷く。

「私は過去の行いを悔い改めた結果と言っておきましょう」
「はぁ」

 ちなみに彼の今の心情は「イエス・ロリコン、ノー・タッチ!」であった。仮にこの心情(しかも改心した結果)を知ったらモロトフは彼との協力関係を続けるべきか少し悩んだかもしれない。

「ただしアピールするだけでは弱いかも知れません」
「ふむ……」

 ソ連の悪行から目を逸らすものがあればいいのですが……と呟くモロトフを見て、ベリヤはあることを思い出した。
 ベリヤは慌てて部下に電話を掛けて、ある資料を持ってこさせる。

「これは……」
「旧アメリカ合衆国の資料ですよ。日米開戦前のものです」

 戦前、ソ連のスパイは世界各国に入り込んでいた。
 特にアメリカ合衆国には重点的に工作が行われ、国務省を中心にソ連のスパイは暗躍していた。このためアメリカの情報は、ソ連に漏れていたのだ。 尤もあの戦争によってアメリカが滅亡したこと、そしてソ連の国際的地位の失墜と諜報網の壊滅で情報機関はてんてこ舞いだったため旧アメリカの 情報は倉庫の片隅に放置されていたのだ。

「そこに何が?」
「他国の足を引っ張る材料、いやその材料になりえる『何か』ですよ」

 そう言ってベリヤとモロトフは資料を読みふける。そして二人は同時に一つの可能性を見出した。

「第二次満州事変は日本の仕業ではない可能性がありますな」
「ええ。そしてこの場合、日米対立が起きて一番得をするのは……」

 二人は故人となった男『張学良』の存在を思い出す。

「しかしソ連の信用が失墜している今、この資料を発表しても信用されまい」

 モロトフは苦い顔をする。だがベリヤは諦めない。

「約束を必ず守る国、かの国ならば有効に使えるでしょう。幸い彼らは大陸封鎖を国是としている」

 日本が大陸勢力を封鎖する戦略を採用していることは、ソ連でも知れ渡っていた。
 その気になれば、幾らでも切り取れるにも関わらず日本は、中国の海への出口を全て封鎖すると後は中華民国の分裂を煽るだけで領土を掠め取ろうとする動きはなかった。
 勿論、日本は新領土の整備に忙しいために何もしないだけという声もあった。しかしこれまでの日本の様子を見る限り、露骨に大陸を侵略するとは考えられないというのが大勢の見方だった。

「もしも張学良が自作自演で日米対立を煽り、日本の国際的孤立を招いたのが事実であれば……日本の敵意は中国に向かうでしょう。それは我々にとっても都合がよい」
「勿論、中華民国に嵌められたことを理解した各国も怒り心頭になって日本に協調して中国を叩く。そして自作自演を知りながらそれを黙認した旧アメリカ合衆国へも怒りは向く……我が国には都合がよいですな」

 上海大虐殺で中国は列強から怒りと不信を買っていた。
 ここでさらに第二次満州事変が自作自演であったと露見すれば……中国は袋叩きにあっても文句は言えない。それどころか世界中で華僑系が排斥される可能性がある。

「そして世界から孤立した中国は叩きやすくなる」
「まさか、中国へ侵攻すると? しかし満州はもはや日本の庭と化している状態。ここに手を出せば……」
「多少不便ですが、通り道はあるでしょう」
「まさかトルキスタンを使うと?」
「自前の穀倉地帯を少しでも多く確保することは必要と思いますが」
「日本の尾を踏まないように注意は必要になりますが……中々、面白い案です」

 こうしてソ連は動き出す。





 ソ連国民は厳しい食糧事情に苦しんでいたが、ドイツ軍の占領地の住民であるユダヤ人とポーランド人、そしてロシア人はそれ以上に苦しんでいた。ドイツ政府は食糧増産や新領土開発のためにドイツは彼らを徹底的に酷使していたのだ。
 真冬のワルシャワ駅からは、連日、多数のポーランド人を載せた(誤字に非ず)列車が東に向かって出発していた。そして帰りにはロシア占領地から収奪した物資を載せて戻ってくるが、それがポーランド人の手に渡ることはない。

「「「………」」」

 絶望に打ちひしがれた者達は、虚ろな目で次々に列車に押し込まれていく。
 中には逃亡を図る者もいたが警備隊、そしてドイツ軍親衛隊によって捕らえられるか、射殺されていった。勿論、働き手を奪われたポーランド市民は貧困に喘いだ。
 この窮状に怒らないポーランド人は存在しない。彼らは自由と食糧を求めて幾度も蜂起した。だがそのたびに彼らは蹴散らされ、逆に多くの人間が奴隷として捕まっていった。
 あまりの悲惨さに近隣地域に逃げようとする者もいるが、ポーランドによって痛い目に合ったことがあるウクライナ、ミュンヘン会談の時に裏切られた旧チェコの住人は過去の遺恨を忘れてはいなかった。

「因果応報だ」

 ドイツはそんな反ポーランド感情さえ利用した。ドイツに向けられる悪感情をポーランドに向けさせ、ガス抜きを図ったのだ。
 そんなポーランド人にさらなる追い討ちが襲った。ポーランド総督府はヒトラーからの指示に基づき、旧ポーランド内の学校、図書館の破壊を進めたのだ。

「ポーランド人、ロシア人に教養は必要ない」

 ヒトラーにとって東方の生存圏はドイツ人のものであり、そこに住む人間の権利など考慮するに値しないものだった。ましてそんな者達に教育の場を与えるなどもっての外だった。
 この祖国の窮状を知った旧自由ポーランド政府は日本帝国に対して、自国民の救出を嘆願した。

「このままではポーランド人はこの世から消滅します。ナチスの蛮行を止めるために力を貸していただきたい」

 旧亡命政府首班だったヴワディスワフ・シコルスキは、悲痛な声で嶋田にそう嘆願した。だが嶋田の回答は無情なものだった。

「申し訳ないが、貴方方が北米で生きていけるように手を打つだけで精一杯なのです。東欧にまで手を伸ばす力は我が国にはありません」
「しかし貴国が動けば、ドイツも無視は出来ないでしょう」
「内政干渉になります。そして日独関係が悪化すれば、アメリカ風邪の封じ込め政策にも影響が出ます。そうなれば世界の危機を招きかねません」
「ですがドイツに甘い顔を見せればどのような事態が起きるか、それを貴国はよくご存知では?」

 ナチスドイツの危険性をいち早く英仏に警告し、遣欧軍の派遣を打診したのは他ならぬ日本だった。シコルスキは「あれほどの先見性を持つなら、ドイツを 放置するのが如何に危険であるか判るはずだ」……そう訴えた。

「……あの時とは状況が違います。我々は共通の脅威であるアメリカ風邪に対抗しなければなりません。共産主義よりも遥かに脅威である疫病を 封じ込め、撲滅するためにはドイツの力も借りる必要があるのです」
「彼らがアメリカ風邪を兵器に転用しないといえますか?」
「確かに『絶対にない』とは言えないでしょう。しかし現在、優先するべきは各国と協調したアメリカ風邪封じ込めであり、ドイツと戦うことではないのです」
「……ですがドイツの威を狩るイランは中東で英資本の接収を図っていると聞きます。このままでは日本にも害が及ぶのではないでしょうか?」
「仮にイラン政府がドイツに与して帝国に戦いを挑んだ結果、どのような事態が起きても……それらは全て彼らの責任です。自分の意思で我々と同じゲームの盤面に立つのなら、その程度は覚悟してもらわなければ」

 嶋田は不敵な笑みを浮かべて言い放った。

(無残に滅びたくなければ勝手に動くな、そう言うつもりか……)

 彼の考えた通り、嶋田の台詞は旧自由ポーランド政府に向けて放たれたものでもあった。
 「日本が与えた世界で満足するならそれでよし。もしも与えられたもの以上のものを求めて、列強のパワーゲームに立ち入るような真似をすればどうなるか……判っているだろうな?」、そんな脅しが含まれていた。
 そしてシコルスキは嶋田が言外に含めたメッセージを正確に理解し、嶋田は目の前の男の反応に満足して話を続けた。

「我々もドイツを筆頭にした枢軸国を警戒していない訳ではありません。空母『白鳳』を建造し、今後は更に新型戦艦を建造する予定です。 兵器の更新も進めます。これは内密に願いますが……来年のインド洋演習では、我が軍の最新鋭戦闘機、それも既存の機体とは大きく異なる画期的な戦闘機を公表することになっています」
「画期的、ですか」
「対米戦には間に合いませんでしたが……ドイツ軍の新鋭機『ドルニエDo335』を圧倒できる能力を持っていると断言できます」

 嶋田は言外で「軍備に手抜きはなく、ドイツと再戦する準備も整えている」と告げた。

「万が一への備えはしますが、現状ではあの忌々しい疫病へ対処するのが最優先なのです。その点は理解していただきたい」
「………」

 こう言われると、さすがのシコルスキも黙るしかなかった。彼が黙ったのを見て、嶋田は切り出した。

「ですがドイツ人のやり方については我々も思う処があります。それに自由ポーランド軍将兵の家族や関係者の安全も確保しなければなりません。情報機関と外務省に命じて自由軍関係者の救出を進めます。 また技術者や技能者の国外脱出も支援します」
「あ、ありがとうございます」

 負けた国は何もかも奪われる世界で、救いの手を差し伸べられることは無いと言っても良い。しかしこの会談でポーランド人は僅かながらも救いの手を 得られた。シコルスキからすれば、たとえ祖国が奪還できなくとも、一人でも多くの同胞を救えるとなれば満足しなければならなかった。
 退室していくシコルスキや通訳達を見送った後、嶋田は「やれやれ」と呟くとため息をつくと誰にも聞こえない程の小さな声でつぶやく。

「本来は自治領を与えたかったが……仕方ない」

 当初、夢幻会内では旧アメリカ領内でポーランド自治領を形成させる計画が存在した。
 だがポーランド人自治領を形成するために必要な人間の輸送、そして何百万人ものポーランド人が生活できるだけの基盤を北米で形成するために必要な負担の試算が出ると反対意見が出て計画は中止された。 何しろ帝国もかなり無理をしている。必要なのは分かるが、無い袖は振れないというのが結論となった。
 多少外道だったが、ポーランド人をドイツ領内に留まらせて、ドイツ勢力圏の不安定要因にすることも提唱されていた。

(第二次大戦勃発を予見しながらポーランドをナチスドイツに蹂躙させ、今度はドイツ人の戦後統治の足を引っ張るために大多数のポーランド人を見殺しにする、か)

 これで犠牲者が数百万単位で増えたわけだ……嶋田は口の中でそう呟くと、軽く自嘲の笑みを浮かべる。
 だがポーランド自治領構想が取りやめになったからと言って、日本の手が足りない以上、人件費が安く、尚且つ忠誠心が期待できる傭兵は必要であることには間違いなかった。そしてポーランド人に代わる傭兵として白羽の矢が立ったのは中国に逃れてきたユダヤ人達だった。
 史実の日中戦争に相当する戦争が大戦前には無かったことと米国の大陸介入によって中国大陸は曲がりなりにも安定していた。このため欧州から貧乏なユダヤ人が流入したのだ。
 米国のユダヤ人が彼らの生活を支援していたが、その米国が崩壊したため、難民として逃れてきたユダヤ人は再び貧困にあえぐことになった。そこに日本は目を付けたのだ。

「満州や上海での生活を支援すると引き換えに彼らを利用出来ないだろうか。見た目が白人なら黄色人種の部隊よりも受けは良いだろう」

 そんな声があがり、特務機関などを通じて現地のユダヤ人社会と接触が行われた。
 現地のユダヤ人の中には約束の地にこだわる者もいたが、大勢は今の状況を打開するために日本の傭兵となる道を選ぶ者が多かった。
 またナチスドイツがこれ以上勢力を拡大して世界を制覇するようなことになれば、自分たちの生存すら危ういという危惧がその決断を後押しした。

(しかしこうなると西海岸諸国を牽制するにはカナダを使うしかないか……カナダ復興支援を急がなくてはならない)

 頭を軽く振ると、嶋田は改めてぼやく。

「やれやれ、忙しいことだ。偶には暇な日があって欲しいものだ。折角、趣味で園芸も始めようかと思っているのに」

 適わぬ望みとは知りながらも、嶋田はそう呟いた。だがこの時の呟きを彼は終生忘れなかった。
 後に嶋田はその日のことを思い出してこう言う。「あの台詞はフラグでしかなかった」――と。

「これは本当なのか?」

 シコルスキとの会談があった日の翌日に開かれた夢幻会の会合で、嶋田は絶句していた。

「いや、あり得る話ではないのか? あの張学良とロングのことだ。あり得ないことはないか」
「しかしこれが真実となると大変だな」

 ソ連からリークされた情報の詳細を知った夢幻会は驚愕した。だが同時に鵜呑みにはしなかった。これが大嘘だったら目も当てられないのだ。

「現在の状況でソ連が我々に意図的に偽情報を送るとは考えにくいが……情報の精査は必要だろう」

 近衛の意見に会合の面々は異を唱えなかった。そして精査の結果、この情報が真実だと判ると最初に米中に対する怒りの声が広がった。何しろ この第二次満州事変の所為で、日本は孤立していったのだ。そして衝号作戦をしなければならない立場に追いやられたのだ。

「そこまでして日本を滅ぼしたかったのか、あの連中は!」

 嶋田でさえ怒りの声を挙げた。だが彼らはすぐに冷静さを取り戻した。怒っていては冷静な判断など出来ない。そして冷静になった嶋田は ソ連がこのような情報をわざわざ無料で寄越したことに驚いた。

「それにしても、ソ連からこのような情報が無料でリークされるとは」
「それだけ必死なのでしょう。今やソ連はメキシコに匹敵する世界の敵です。世界中から白い目を向けられている状況で有効なのは……」

 少し間をおいて、辻は言い放った。

「自分を上回るヒールを仕立て上げることでしょう」

 辻はソ連の目的が何なのか……それを察していた。

「ですが、今回はこれに乗ってやりましょう。『連中』に東南アジアをかき乱されたり、福建共和国を乗っ取られたら堪りません」

 尾崎からは華北出身の華僑達が活発に動いていることがすでに報告されていた。そして情報局でも華僑が大陸で隆盛しつつある華南連邦や福建共和国に 浸透を図っていることが確認された。
 確かに上海での蛮行、その後の中華民国政府の行いの数々で中国系の人間への信用と信頼は失墜していた。だが華僑の影響力が完全に消滅した 訳ではない。各地には中華街が存在し、そこを拠点に活動する人間は多い。

「我々が投資した福建共和国や華南連邦を丸ごと乗っ取られ、中華帝国の復活に利用されるのは絶対に阻止しなければなりません」

 辻の意見に反対意見は無かった。

「アメリカ、インドという市場が消滅した状態で、さらに中国まで潰えさせるのは面白くない……そんな声もありますが、こればかりは譲れません」

 大市場が次々と消えるのは面白くない……そんな声は経済界から挙がった。
 だが夢幻会は「安全保障優先」を掲げて、それを押し切った。夢幻会の面々から言えば中国人とは絶対に相容れない存在であり、彼らの隆盛は 日本の存亡を脅かすと信じて疑わなかった。

(前の世界でラルフ・タウンゼント氏の著書を見れば彼らの本性がよく判るだろう。いやこの世界で義和団の乱を見れば、連中がいかに危険か、そして 信頼が置けないか判るだろう)

 それが夢幻会会合メンバーの共通認識だった。
 欧米は侵略の尖兵として宗教を使っていたこともあったが、少なくとも地元住民のために長らく尽くしてくれた高齢のイギリス人女宣教師を 残酷な拷問の末に処刑したり、奴隷同然の境遇から救い、将来のため教育を受けさせてくれたミッション・スクールを放火したりする人間と 好き好んで共存したいと思う人間はそうそういない。
 政府がそういった人間を取り締まるなら、まだマシだっただろう。だが時の中国政府は違った。彼らはむしろそのような動きを後押しした。 史実の中国政府は多くの外国人を「逮捕」(実質は身代金目当ての誘拐)し、中には殺害された人間もいる。
 「愛国運動」の名の下に行われた蛮行であった。だが彼らはそれを反省することなどしない。むしろそれが有効であると判断すれば平然と 何度でも行う。普段は愛嬌を振る舞き、何かあると豹変して激しく攻撃してくるのだ。
 それはこちらの世界でも変わらない。日本が建国を後押しした福建共和国出身の人間であっても、夢幻会の面々はそうそう簡単に信用する つもりはなかった。

「著作権とかオリジナルに敬意を払えない連中を心から信用、信頼するなんて無理だろう。JK」

 それが彼らの本音でもあった。

「たとえ中国人が高級服を着て、高級外車に乗れる時代になっても、連中の性格は変わりません。注意は必要でしょう」

 これに反論する人間はいなかった。むしろ陸軍の長である杉山は深く頷く。

「連中が豹変することは義和団の際の動きを見れば明らかだからな。尤も戦争中の上海での裏切りと虐殺、そして北京政府の卑劣な申し出を考えれば 誰もが判ると思うがね」

 不快そうな顔をする杉山。陸軍の軍令のトップであるが故に、彼は主戦場となった中国の事情に精通していた。故に彼は不快だったのだ。あのような 信頼も信用も置けない人間達が住まう大地が。そしてそんな大地に誘惑される人間も不愉快だった。

「仮に中国に投資を行うとしても、すぐに撤退できるように事前に用意すること、投資する資金は回収できなくても問題ない程度に留めること、 日本企業であることを表に出さないことなどが必須でしょう。それほど用心しないと連中によって寝首をかかれます。本音を言えば物の売り買いだけに 留めて投資などしたくはないのですが」

 倉崎潤一郎は若き経営者であった。それでも大陸に投資する際の注意点は心がけていた。
 彼は父の薫陶を受け継ぎ、優秀な技術者であったが、同時に優秀な経営者でもあり、歴史学者の端くれでもあった。彼は歴史から故事を学び、それを活用することを心がけていた。
 ちなみに彼は富嶽、またはその関連技術を利用した旅客機、輸送機開発を推進して戦後の市場で更なる躍進を狙っていた。同時に水上機などの価値の 下がった機体について積極的にイギリスや北欧への売却も進めていた。最初は使い勝手が悪い高価な機体をイギリスに売りつけてやれ、との意見もあったが彼はそれを押さえた。

「料金を払っていただく以上、彼らはお客様だよ。ならば我々は『料金分』の仕事をしなければならない」
「船団護衛、それに北米防疫線の監視には水上機で十分。価値が下がっていく商品なら適正価格で売りつけてやっても十分に利益になる」
「客を満足させれば……次の商機を呼び込むことにも繋がる。勿論、技術漏洩には気をつけろ。将来の商売のためにも」

 彼はそういってイギリスとも取引を行った。当然だが、裏切り者イギリスと平然と商売する姿勢に、不満を持つ者も少なくない。
 だがこの男にとっては『国家の不利益にならない』範囲で商売するなら、自社のシェアを獲得するために何だってするつもりだった。彼自身としても イギリスの裏切りには怒りを覚えたし、技術を漏洩させかねない相手として不信感は持っていた。だからといって商売をしないという選択肢を選ぶつもりもない。 それに日英関係が永遠にこのままとも潤一郎は思っていなかった。いずれ日英関係が改善した時には、どん底であった英国と取引した時のコネクションが 役に立つとさえ考えていた。
 何はともあれ、彼は商機と見るや、貪欲に食いつく男だった。そんな男でも大陸への直接投資は二の足をふむ程にリスクが高すぎるものだった。

「何はともあれ、在中米軍の生存者や国務省の生き残りへの調査も進めましょう。正確な情報を掴まなくては」
「ふむ」

 だが夢幻会にとっての試練は終わらない。
 異常気象が続いていたこともあってか、巨大なサイクロンが政情不安のインドに上陸し、現地に多大な被害を出したのだ。
 そしてこれが後にインド、中東情勢に大きな影響を与えることになる。








 あとがき
提督たちの憂鬱外伝戦後編5再改定版をお送りしました。
ポーランド自治領構想は無しとなりました。引き換えに日本はカナダ支援に力を入れることになります。
またポーランド軍増強の代わりにユダヤ人部隊が加わります。
中国では下手をしたら東トルキスタンが勢力を拡大するかも知れません(爆)。
そして改訂前にはないイベントが本格的に始まります。イギリスの試練はまだ終わりません。まぁ裏切った報いと言ったところでしょうか(苦笑)。
それでは提督たちの憂鬱外伝 戦後編6でお会いしましょう。



 今回掲示板から採用させて頂いた船のスペックです。

<図南丸>型冷凍船 排水量:、2万トン(総) 満載排水量:3万9千トン(輸送船タイプ)
全長:189m 全幅:25.2m
巡航速度:12ノット 最高速度:16ノット
機関:ディーゼル2基1軸(13000hp)
武装(戦時):76mm単装砲2門、20mm単装機関砲4門
同型艦:<第二図南丸>、<第三図南丸>、<第四図南丸>、<第五図南丸>
    <極洋丸>、<第二極洋丸>、<第三極洋丸>、<第四極洋丸>、
    <日進丸>、<第二日進丸>、<第三日進丸>、<第四日進丸>